革令改元
革命改元と類似のものに、革令改元があります。
これは「甲子の年には、変事が多い」とされたことによります。
辛酉の年に「革命」が起き、その3年後に訪れる甲子の年には、「革令」が起こるとされていました。
革令とは、「革命のあとに、天命を受けた人物が下され、世が改められる」ことを意味します。
このために、甲子の年には天下に変事が発生し、王朝の交代が起きやすくなると考えられたのでした。
たとえば、三国志に登場する黄巾賊は184年に、「今年は甲子の年なので、漢王朝は滅び、新たな世が訪れる」というスローガンを掲げて反乱を起こしました。
革令改元は、これを防ぐために改元をして、変事を防ごうとするものです。
この考えに基づき、村上天皇の康保元年(964年)に、始めて革令改元がなされました。
こちらも慣習化し、応徳・天養・元久・文永・正中・寛永・文化・元治など、平安時代から幕末まで継続しています。
革命改元と同じく、60年周期となっています。
(余談ですが、甲子園球場は、建造された年(1924年)が甲子にあたることから、この名称がつけられました)
陰陽五行説の流入の経緯
このように、革命と革令の改元は、陰陽五行説に基づくものでした。
これは中国に古代から存在する思想で、「木、火、土、金、水」の五行に、「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸」などの陰陽の概念を組み合わせ、その年の傾向や吉凶などを占うものです。
干支や十二支などは、この思想に基づいて成立しています。
(十二支は五行説よりも古くから存在しており、それを五行説が取り入れたのだとも言われています。)
五行説は中国の南北朝時代(439-589年)に盛んになり、それが朝鮮半島にも広まり、やがて日本にも伝来されました。
推古天皇の代、602年に百済の僧・観勒が暦本とともに、天文や地理、遁甲方術の書を伝えたことがきっかけで、日本人も学ぶようになります。
それが浸透していき、900年頃には三善清行のように、すっかりとそれを習得し、朝廷に改元の提案をなす者が現れるに至ったのでした。
即位の翌年の改元
天皇の代替わりの際に、改元をするのが慣例となっていますが、時期によっては、即位の翌年に改元がなされることもありました。
文正・正徳・明和・安永・天明・嘉永などがこれにあたりますが、時期には室町から江戸時代まで、ばらつきがあります。
どうしてこのようなことが行われたのかについて、次のような推論がなされています。
「即位の年に年号の改元があれば、その年は、半ばは先帝の年号となり、残りは今上天皇の年号になる。
これは地に二人の王があるようなものなので、忌まれた。
なのでその翌年から、今上天皇の元年となったのだろう」
こういった措置は、全体からみれば例外的な対応だったようで、元号は一年の間に重なることの方が、多くなっています。
元号の定め方
中世においては、改元をする際に、式部大輔や、文章博士などの公卿が候補を策定する任務にあたりました。
彼らが経史(中国の古典)の中から意味のよい字を選び、組み合わせて候補を提案をします。
これを元にして、公卿を集めて会議を行い、どれが妥当であるかが検討されました。
そして決議されると、天皇に上表をして裁決を受け、正式に決定することになります。
江戸時代の事例
元号は朝廷が定めるものでしたが、将軍の権力が強かった江戸時代には、幕府が影響を及ぼしていました。
正徳(1711-1716年)に改元をする際、慣例によって菅原家が候補を作成し、寛和・享和・正徳の三つの号を提案します。
すると時の中御門天皇は、「寛和の号がよい」と意向を示したのですが、幕府にこれを伝えると、「正徳の方がよい」と言われ、結局はそちらに決まることになりました。
この時代の学者で、政治家でもある新井白石は、「我が朝廷が現代に至ると、天皇の号令が国中に行われるのは、ただ年号の一事のみになっている」と書いていますが、実際には年号も幕府が決めるようになっていたのです。
これによって、幕府は朝廷よりも優位にあることを誇示し、権威の強化をはかっていたのでした。
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