善政をしいたと伝わる
八幡山城の建築や、領地の整備はすべて秀吉が取り仕切っており、諸将の配置などもあらかじめ決められていました。
言うなれば、秀吉のお仕着せの領地に赴任した、ということになります。
そして側近の田中吉政と、中村一氏らの重臣たちが中心となって政務を執り行いました。
このために領内の統治が行き届き、善政が敷かれたという話が、今でも語り継がれています。
秀次自身の活動は限られていたと考えられていますが、一方で以下のような逸話も残っています。
ある時、領内の農民が水利権を争ってもめごとを起こし、その裁定を領主の秀次に訴え出ます。
この時に秀次は田中吉政を派遣して現地の事情を詳しく調べさせ、双方が納得する裁定を下して争いを鎮めた、というのがその内容です。
この逸話から見るに、秀次は大きな領地を任されたことに責任を感じ、よい領主になろうと努めていたのでしょう。
そうした姿を見て、秀吉も秀次への評価をさらに高めていったものと思われます。
こうして秀次は、為政者としての経験を積み重ねていきました。
官位が上昇し、豊臣姓も与えられる
この頃から秀次の官位が上昇し始めており、1586年には右近衛中将に叙任され、豊臣姓を秀吉から下賜されています。
これによって、「豊臣秀次」と名のるようになりました。
この年に最有力候補であった秀勝が亡くなっており、秀次が秀吉の後継者になる可能性が、さらに高まっています。
一方で、この後も秀吉は親類の中から秀俊を養子にしたり、別の養子に秀勝の名をもう一度与えるなどしており、必ずしも秀次に決まった、というわけではありませんでした。
秀次はその後も順調に昇進を重ね、1587年には従二位に昇進し、徳川家康、織田信雄、豊臣秀長に次ぐ4番目の序列に位置づけられました。
秀吉に実子・鶴松が誕生する
こうして秀次が豊臣政権の中枢に入りつつあった頃、1589年に秀吉の実子・鶴松が誕生します。
それまでに秀吉にはひとりも実子がいなかったのですが、淀殿が側室になるや、一年後にこの子どもが生まれています。
秀吉は大変に喜び、すぐに鶴松を自分の後継者と定めました。
同時に、これによって秀次が秀吉の後継者になる望みが絶たれています。
秀次は残念に思いもしたでしょうが、この後も秀吉から重用され続けており、気持ちを切り替え、豊臣政権の重臣として務めを果たしていくことを目指すようになっていったと思われます。
北条征伐に従軍する
1590年に、秀吉は関東を支配する北条氏の討伐を行いますが、この頃になると秀吉の弟で、優秀な補佐役である秀長が病に倒れてしまいます。
このために秀次が討伐軍の副将に任じられ、徳川家康の後見の元で軍を動かすことになりました。
秀次はこの時、6万7千という大軍の指揮官となって、北条氏の前線拠点である山中城の攻略に取りかかっています。
守備軍の兵力は4千程度でしかなく、秀次は息をつかせぬ猛攻をしかけ、わずか数時間の戦闘で落城させています。
しかし一方で家老の一柳直末が戦死しており、城兵たちの抵抗は激しいものであったようです。
山中城を手中に収めると、そのまま北条氏の本拠である小田原城の包囲に参加し、戦いが終わるまで滞陣を続けました。
【次のページに続く▼】