朝鮮と明への遠征
秀吉はこの年に明への討ち入りも決意しており、国内の統治を秀次に任せる意向を持っていました。
このため、秀吉は肥前(佐賀県)の名護屋城に移って遠征の指揮を取り、秀次は政庁である聚楽第(じゅらくだい)に居住して政務を担当するようになります。
そして翌1592年には聚楽第に天皇の行幸が行われ、秀次がこれを迎えることによって、新たな天下人になったことが世に示されました。
こうして秀次は、秀吉の甥に生まれ、後継者候補が次々といなくなるという、彼にとっての幸運によって、24才にして天下人になるという破格の存在になりました。
このまま何事もなく時が過ぎれば、秀次はめったにない運に恵まれた人として、後世に名を残すことになったでしょう。
しかし淀殿の再度の懐妊が、秀次の運命を激しく揺さぶることになります。
秀頼の誕生
関白の地位など、すべての継承が終わった直後に、淀殿が懐妊したことが明らかになりました。
そして1593年の8月には、無事に秀頼が誕生します。
秀吉はこの時、九州から大坂まで駆けつけ、秀頼を抱きかかえて喜びました。
老いてから生まれた子を失った直後に、再び子を得たことで、秀吉の秀頼に対する溺愛と執着は、並々ならぬものに膨れ上がっていきます。
同時に、秀次に関白の地位を譲ったのは早まった行いだったと、後悔するようにもなります。
秀吉は秀頼が生まれたすぐ後で、山科言経(ときつね)という公家に会った際に、「日本を5つにわけ、4つを秀次に、1つを秀頼に譲りたい」という構想を話しています。
実子である秀頼に自分が築いたものを譲り渡したい、という欲求が秀吉の中でどんどんと膨らんでいき、これを実現させるために、秀吉は様々なことを考えるようになっていきました。
この話の後で、秀吉は秀頼と秀次の娘を結婚させ、将来は秀次の後に秀頼が関白になれるようにしたい、とも側近に語っています。
この頃の秀吉は、関白にしてしまった秀次をいきなり排除するつもりはなく、穏当に秀頼が将来天下人になれる道を作りたい、という考えを持っていたようです。
しかし秀頼の誕生によって、秀次の精神と健康が蝕まれるようになっていき、これが秀吉との関係の悪化につながっていきます。
喘息の発作が起きる
秀次は喘息の発作を持病として抱えていましたが、秀頼の誕生の直後から、これが悪化していたことが記録に残されています。
秀頼の誕生の翌月から熱海に湯治に赴いていますが、これは喘息の治療のためでした。
しかし熱海の湯でも病状が回復することはなく、むしろ悪化してしまったようです。
天下人になったと言っても、それは秀吉から与えられた地位でしかなく、自分で勝ち取ったものではありません。
ですので、秀吉の秀頼への溺愛ぶりが伝えられるにつれ、これを取り上げられてしまうのではないかという恐怖心が胸中にはびこるようになり、抑えが効かなくなってしまったのでしょう。
与えられたものであるとは言っても、関白の地位と名誉、そして天下人としての栄光は、一度掴んだ者がそう簡単に手放せるようなものではなく、秀次にもまた、権力への強い執着心が発生していたものと思われます。
伏見城と聚楽第
秀吉は自身の隠居のための城として伏見城を建築し、そこに居住するようになりました。
しかし実際に秀吉が居住しはじめると、城下には武家屋敷が多く築かれるようになり、新たな政庁としての様相を呈していきます。
秀吉は伏見城から聚楽第にいる秀次の様子を監視するようになり、秀次にとってはこれが圧迫感をもたらし、さらなる重圧をかけられることになりました。
秀吉はさらに大坂城の拡張工事を行い、その防御力を強化していますが、これもまた伏見城と大坂城の連携によって、いつでも秀次を封じ込めることができるという、意志の表明であったとも言われています。
このようにして秀吉は秀頼の将来のため、国内の掌握に力を入れ始めており、これが秀次の権力の削減と、関係の悪化につながっていきます。
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