三好信吉を名のる
これにともない、秀次は「三好信吉」と姓名を変えています。
信吉という名前は、信長の「信」と、秀吉の「吉」を合わせたものであると考えられています。
一人の子どもが二度も養子に出されるのは珍しい事態ですが、このように、秀次は幼い頃から秀吉によって、あちこちに送り込まれる存在でした。
都合のよい道具になっていた、とも言えるでしょう。
三好氏はこの頃には勢力が衰えていましたが、信長が台頭する以前には畿内を掌握していた時期もあり、京の周辺では名の通った一族でした。
このため、元は庶民の出であった秀次が三好氏の養子になったのは、かなりの好待遇だった、と見ることもできます。
三好康長が失踪し、三好家の家督を継ぐ
1582年に三好康長が加わる形で、織田軍による四国征伐が計画されますが、出陣の直前に信長が本能寺で明智光秀に討たれたことから、この遠征軍は解散してしまいます。
その後の通康の動向は不明で、出家したという説もありますが、いずれにせよ歴史の表舞台から姿を消してしまいました。
このため、1583年に秀次は三好氏の家督を相続し、河内(大阪府東部)2万石の領主になります。
15才にして大名の身分を得たことになりますが、秀次自身の努力によるものではなく、全て叔父の出世にあやかってもたらされたものでした。
この後も、自分の手で何かを勝ち得た経験が乏しいまま、常に過大な身分を与えられ続けるという状況が、秀次の生涯に渡って続くことになります。
池田恒興の娘と結婚する
やがて秀次は、信長の重臣であった池田恒興の娘と結婚することになりました。
この頃の秀吉は信長死後の主導権争いを演じており、織田氏の家臣たちの取り込みを図っていました。
その一環として、恒興と縁戚関係になるために、秀次と恒興の娘を婚約させたのです。
後に結婚も執り行われ、この娘が秀次の最初の正室になっています。
恒興は結婚に際し、三田城という摂津(大阪府西部)の要衝を秀次に譲っており、所領が増加しています。
恒興は信長の乳兄弟という立場にあった武将で、この結婚によって秀次の立場はさらに強化され、秀吉の重臣のひとり、という位置づけになっていきます。
初めて総大将を務める
この頃から秀吉は秀次を一個の武将として扱い始め、伊勢の滝川一益との戦いの際には、2万の軍勢の総大将を任せています。
この時には中村一氏(かずうじ)という、秀吉に長く仕える武将が副将を務めました。
中村一氏は老練な武将で、秀吉からの信頼が厚く、実際に軍勢を取り仕切っていたのは彼でしたが、一方では秀次に大きな仕事を任せられるかどうかを、試し始めていたのだと思われます。
秀次は取り立てて優れた才能の持ち主ではありませんでしたが、こうして周囲の補佐を受けながら、少しずつ大きな仕事をこなしていくことになります。
この時は滝川儀太夫という武将が守る嶺城(みねじょう)の攻略に成功し、無難に軍功を立てています。
羽柴信吉を名のる
やがて秀吉は柴田勝家や滝川一益ら、対立した織田氏の武将たちを討ち破り、自身の覇権を確立します。
そして畿内の情勢を掌握したことで、秀次が三好姓を名のる必要性が薄れていきました。
このため、秀次は三好姓を捨て、秀吉と同じ羽柴姓を名のるようになります。
(「羽柴」は秀吉が近江の大名になった時に新しく作った姓です)
秀吉には主君の信長からもらい受けた秀勝という養子がおり、その筋目のよさからして、秀吉の後継者になる存在だとみなされていました。
しかし秀勝は重い病にかかって体調を崩しており、このために健康な秀次の存在価値が上がって来ていました。
こうした状況の中で羽柴姓を名のったことにより、後継者候補としての序列が高まったものと思われます。
また、秀次は秀吉の親類の子どもたちの中では年長者であり、この点も秀次の立場を有利なものにしていました。
秀次自身もそれを意識し始めたようで、次に起こった大きな戦いでは、重要な役目を自分に任せてほしいと主張します。
この時に初めて、秀次自身の意志が見られるようになりました。
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