朝鮮への出陣を拒む
1594年には、秀次が朝鮮に渡海し、現地で総大将として指揮を取るという計画が持ち上がりますが、秀次は喘息の病を理由にこれを断っています。
秀吉は朝鮮・明への遠征事業を強く主導していましたので、秀次が遠征に参加しなかったことを、かなり不快に感じたことは間違いありません。
俺の言うことが聞けないのであれば、いっそのこと関白の地位を取り上げるか、と言葉にまではしないものの、そういった意向を持っている気配を、周囲にうかがわせ始めたようです。
これを察知し、やがて秀次が地位を失うことになるのではないかと心配をした秀吉の重臣・黒田官兵衛が2人の間を取り持とうとします。
官兵衛は優れた武将・智者として秀次から慕われ、何かと助言を求められていた経緯がありましたので、秀次のためを思って行動を起こしたようです。
官兵衛は秀次に「朝鮮に出陣して秀吉様の意に添うようにしなくては、やがては関白の地位を失うことになります。また、養父が前線基地で指揮を取っているのに、その子が京の都で安楽に生活をしているのは、よくない行いだと世間から見られます」と諫言をしますが、秀次がこれを受け入れることはありませんでした。
秀次は豊臣氏は日本一国だけを支配していればよく、朝鮮や明への討ち入りという冒険的な事業は不必要だと考えており、それもあって渡海はしませんでした。
秀次の見識にも一理ありますが、これは最大の権力者である秀吉の意向に逆らう方針を取っていることになり、官兵衛が言うとおり、せっかくの関白の地位を失いかねないふるまいでした。
こうして官兵衛の的確な助言を退けたことが、秀次の身に大きな不幸を招き寄せることになります。
謀反の疑い
1595年になると、突如として秀次に、秀吉への謀反の嫌疑がかけられました。
これは秀次が鷹狩を口実にして集会を開き、秀吉に不満を持っている者たちを集めて謀反を協議している、というものでした。
根拠の乏しい噂にすぎませんでしたが、やがて7月3日には石田三成や前田玄以、増田長盛らの奉行衆が秀次の元にやってきて、詰問しています。
秀次にはまったく心当たりがなく、秀吉に逆らうつもりはないという誓紙を差し出して事を収めようとします。
しかしこの2日後の7月5日には、秀次が家臣を中国地方の大大名・毛利輝元の元に派遣し、何らかの制約を交わして連判状を作成している、という報告が石田三成から秀吉になされます。
これによって謀反の疑いが深まり、秀吉は「親子の間柄なのだから、伏見城で直接話し合おうではないか」と言って秀次を招き寄せようとします。
しかし毛利輝元との連判状のことにも心当たりのない秀次は、どうやら何らかの陰謀が進行しているらしいと気づき、これに応じませんでした。
すると、今度は宮部継潤、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊ら、近江の領主時代から、長く関わりを持つ大名たちが秀次の元を訪れます。
そして伏見城に出向き、疑われるようなことがないなら秀吉に弁明した方がいいのでは、と勧めます。
かつての養父や、ともに領地を治めてきた者たちの説得によって、ついに秀次は伏見城におもむくことを決意します。
伏見城で拘束され、高野山に登る
しかし秀次は伏見城に到着するや、秀吉との面会が許されず、木下吉隆という武将の屋敷に留め置かれます。
やがて秀吉の使いが訪れ、「面会は許可されません。まず高野山に登るべきです」と告げられ、身分を捨てて出家することを促されました。
ここに至り、秀次は秀吉が、自分を政権から排除するために強硬措置を取ったのだと理解しました。
これを受けて秀次はすぐに剃髪し、僧侶の衣装を着て伏見から出発しました。
秀吉がその気になってしまえば逆らい切れるものではなく、秀次はすぐにそれを飲み込んだようです。
秀次は関白でしたので、道中で公家たちから左遷への見舞いの書状が次々と届く騒ぎになります。
この時はまだ、秀次がどのような運命に陥ったのか、誰も把握していなかったのでしょう。
すべてを主導している秀吉を除けば。
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