松永久秀は本当に極悪人だったのか?

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東大寺で戦いとなる

この事態を受け、一度は引き下がっていた三人衆が再び大和に襲来し、東大寺に陣を構えます。

これを迎撃するために久秀も出陣し、東大寺で両軍が対峙する事態となりました。

そして両軍ともに、相手を攻撃するために各所に火を放ったところ、東大寺の大仏殿が焼け落ちてしまい、このために久秀は仏敵の汚名を受けることになりました。

元々は三人衆が東大寺に陣を構えたことが原因でしたし、「大仏殿が焼けたのは三人衆側のキリシタンの放火が原因だ」という資料もあるのですが、これもまた、久秀の悪行のひとつとして数えられることになっています。

織田信長と連絡を取る

こうして三人衆と激しく戦いを続けるものの、成り上がり者である久秀には味方になる者が少なく、劣勢を強いられ続けました。

久秀はこの状況を打開すべく、尾張(愛知県)を統一し、美濃の征服にも成功しつつあった、新興勢力である織田信長と早くから外交を行っています。

信長に上洛を要請し、彼の力で三人衆を追い払ってもらおう、というのが久秀の計画でした。

信長は1567年に美濃を完全に制圧した後、越前に逃れていた足利義昭から打診を受け、彼を擁立して上洛することを決意します。

信長は美濃の制圧後に「天下布武」という印を使うようになっており、世間に対して上洛の意を明らかにしていました。

信長が上洛を果たし、久秀は臣従する

1568年に信長が上洛を開始し、これに抵抗する南近江の六角義賢を短期間で撃破すると、京を抑えていた三好三人衆は、恐れをなして撤退します。

こうして信長が京に入ると、まもなく義昭は15代将軍の地位を得ました。

かねてから信長に連絡を取っていた久秀は、いち早く信長に臣従を申し出て、その印として「九十九髪茄子(つくもかみなす)」という高名な茶器を差し出しました。

(久秀は茶人としても著名で、世間に名を知られた茶器をいくつも所有しています。)

義昭からすると、久秀は兄・義輝の仇のひとりであったため、これに反対しますが、信長は久秀を受け入れ、長慶と同じく、大和一国を切り取り次第にしてよい、という待遇を与えています。

信長はこの時はまだ中央に進出したばかりでしたので、京や畿内の事情に詳しく、朝廷との関わりが深く、大和に一定の勢力を保持していた久秀を取り込むことには大きな利点があり、このために過去の行状を見過ごすことにしたのでしょう。

久秀もまた、そうした自分の利用価値をわかっていて、信長に売り込んだのだと思われます。

再び幕臣となる

この時に、三好義継もまた信長に臣従しており、久秀とともに義昭の御供衆に任じられ、かつての義輝の時と同じ待遇を受けています。

こうした動きを見るに、義昭ともある程度は和解できていたようです。

この後の久秀は、信長に従いつつ、義昭にも仕え、かつての長慶・義輝の両者に仕えていた時と同じような活動をしています。

このあたりの動きを見るに、久秀は旧来の室町幕府の権力構造の中で動き続けた人であり、出世欲は強かったものの、よく言われるような下克上の意識は、さほどに備えていなかったように思えます。

大和の平定を進める

この頃には、三人衆と協力していた筒井順慶が、大和で久秀よりも強勢となっていました。

しかし久秀が信長に臣従したことで、佐久間信盛や細川藤孝らが率いる2万の援軍が大和に送り込まれ、この状況が覆ります。

久秀は信長や義昭の家臣たちと協力し、大和の領地を奪還していきました。

こうして久秀の思惑通り、信長の力を借りることで、苦境を脱して大和の支配者の地位に返り咲くことに成功します。

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