金ヶ崎の戦いで信長の撤退を助ける
信長は上洛後、畿内周辺の諸勢力を討伐し、あるいは臣従を要求することで、その権勢を高めていきました。
そして越前(福井県)の朝倉義景にも上洛を要求しますが、義景がこれを拒否したため、軍勢を率いて越前に攻め込みます。
しかし金ヶ崎城を攻め落とした直後に、同盟を結んでいた北近江(滋賀県北部)の浅井長政が裏切ったという情報が届き、南北から挟撃される形になった信長は、撤退せざるを得なくなります。
殿を明智光秀や木下秀吉らに任せ、信長は10人程度のわずかな供を連れ、京に向かって逃走しました。
この時に久秀も信長の側にあり、近江の豪族・朽木元綱の領地を通過する際に、その命を助ける働きを見せています。
朽木元綱は初め、信長を殺害して手柄にするつもりでしたが、久秀が交渉にあたり、必死の覚悟で元綱を説得して味方につけ、無事に近江を通過することができました。
こうして久秀は、信長に対しても大きな貢献をしています。
三好三人衆との和睦をまとめる
浅井長政が敵に回ったことで、信長は苦戦するようになり、摂津に再度進出していた三好三人衆と和睦することにします。
この交渉を久秀が担当し、久秀の娘を信長の養女にし、その上で人質として差し出すことで話をまとめました。
このようにして、久秀は信長に対し、この時点までは忠実な働きぶりを見せており、以前と変わらぬ有能さを示しています。
しかし、この頃には摂津や伊勢に勢力を持つ石山本願寺も敵に回っており、信長が東西から包囲されて苦境に陥ると、やがて叛意を高めていきました。
信長包囲網によって信長への裏切りを決意する
1571年になると、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)を支配する武田信玄もまた、信長への敵対姿勢を見せるようになりました。
そして義昭も信長と不仲になり、各地の大名たちに、上洛して信長を討つようにと働きかけるようになっていきました。
こうした情勢の変化を受け、久秀も信長に従い続けると、やがて我が身が危うくなると判断したようで、義昭に通じ、信玄とも連絡を取り、信長包囲網に加わるための準備を進めます。
信長には大和で支援してもらった恩があり、久秀もそれに応える形でいくつかの功績を立てていましたが、3年程度の主従関係であり、命をかけてまで随従し続けるほどの忠誠心は持っていなかったようです。
信長に反旗を翻す
1572年になり、信玄が本格的に上洛のための軍事行動を開始すると、久秀は三好義継や三好三人衆と結託し、畿内で信長への反旗を翻しました。
しかし、1573年の4月に、信玄が上洛作戦の途上で病死したことで、信長打倒の機運は沈静して行くことになります。
この年の7月には義昭が挙兵しますが、すに信長が率いる7万という大軍に包囲され、京から追放されてしまい、室町幕府は滅亡しました。
さらに朝倉義景や浅井長政も相次いで信長に討ち取られ、包囲網は完全に瓦解します。
こうしてはしごを外されたかっこうになった久秀らは孤立し、11月には三好義継が信長の重臣・佐久間信盛に居城を攻め落とされて自害し、久秀が40年に渡って支えてきた三好本家は、あえなく滅亡しました。
信長に降伏する
この年の年末に、大和も織田軍の侵入を受け、多聞山城が包囲されました。
もはや抵抗は不可能だと悟った久秀は信長に降伏し、多聞山城を差し出したことで、命までは取られずにすみます。
しかし、三好本家が滅亡し、三人衆も信長に駆逐されたことで、かつて久秀とともに畿内を制した者たちの勢力は、もろくも消え去ってしまいました。
久秀は翌年に岐阜に赴き、信長に謁見して再度の臣従を許されますが、領地の大半は没収されてしまいます。
この頃に筒井順慶もまた信長に服属しており、以後は順慶が信長の支援を受け、大和で勢力を拡大していきました。
金ヶ崎などで信長に尽くしたため、命は助けられましたが、一度謀反を起こした人間が重用されるはずもなく、以後の久秀は、大和の一領主として鬱々とした日々を過ごすことになります。
久秀は義継の仇である佐久間信盛の与力とされ、石山本願寺の包囲戦に参加しますが、これといった働きは見せていません。
【次のページに続く▼】