第二次信長包囲網と、再度の謀反
久秀はこうして生きながらえたものの、三好氏が滅亡し、大和の支配権も失ったことで、前途への希望を失い、信長への復讐を密かに企んでいたようです。
1577年になると、新たに北陸の上杉謙信が信長と敵対するようになり、これに石山本願寺と、中国地方の覇者である毛利輝元らが加わる形で、二度目の信長包囲網がしかれました。
そして信長の重臣・柴田勝家を中心とした数万の兵が、謙信と対戦するために北陸に向かった隙をつき、久秀は再び信長への謀反を起こしました。
これには、信長が筒井順慶を大和守護の地位につけ、優遇する姿勢を鮮明にしたことや、かつての居城である多聞山城が順慶によって破却され、久秀が自分の立場への危機感を強めたことも、反逆の要因になったと考えられます。
久秀は本願寺攻めのために詰めていた砦を焼き払い、嫡子の久通とともに、信貴山城に立てこもりました。
信長から説得を受けるも、拒絶する
この時はまだ謙信が健在で、石山本願寺も頑強に抵抗を続けている情勢でしたので、信長は久秀の謀反に驚き、安土城から使者を派遣し、翻意を促しました。
何か問題があるのならば、それを使者に伝えてくれれば対応しようと、二度目の謀反を起こした者を相手にするにしては、ずいぶんと懇切な対応をしています。
この信長の対応は、謙信に備えるために主力が北陸に向かっていましたので、畿内で謀反を起こされるとやっかいだった、という状況によるところが大きいでしょう。
久秀はそれを狙って謀反を起こしたのだと言えます。
久秀は信長からの懐柔の言葉を拒絶し、謀反を貫徹する意思を表明しました。
このために、信長に人質として預けていた二人の孫が処刑されますが、それを顧みないほどに、信長への反抗心にかき立てられていたようです。
信長から討伐軍が送り込まれる
久秀の拒絶に激怒した信長は、筒井順慶や明智光秀、細川藤孝らが率いる5千の兵に、信貴山城の支城である片岡城を攻撃させました。
松永勢は1千の兵力で防衛しますが、守備を担当していた武将が戦死するなど、大きな被害を受けて落城しています。
この時には攻撃側にも大きな損害が出ましたが、早くも久秀は劣勢に立たされていきました。
謙信の動きが止まり、信長の主力が帰還する
そしてここで、久秀にとって最大の誤算が発生します。
能登の七尾城を攻め落とした後で、謙信の行軍が止まってしまい、上洛はしそうにない気配であることが、柴田勝家から信長の元へと伝えられました。
これは関東で北条氏政が動いたため、そちらを警戒して進軍を止めたのではないか、と言われています。
これを受け、信長は主力を北陸から呼び戻し、嫡男の織田信忠を総大将として、佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉ら、そうそうたる軍団長たちに率いさせた、4万という大軍を信貴山城に差し向けてきました。
こうして久秀は、ついに進退が窮まることになります。
信貴山城の防衛戦
4万の軍勢は、8千の松永勢が籠もる信貴山城を包囲し、一斉に攻撃を開始しました。
しかし、築城の名人である久秀が築いた信貴山城は防備が堅く、5倍の敵の攻撃を受けても、容易には落城しませんでした。
さらに城内から200人あまりが討って出て、織田軍に数百人の死傷者が出るほどの損害を与えており、松永勢の士気は盛んであったようです。
このあたりの戦いぶりから、久秀の指揮官としての、優れた力量をうかがい知ることができます。
【次のページに続く▼】