石山本願寺に支援を要請するも、裏目に出る
一度は攻勢を退けたものの、兵力差に変わりはなかったため、久秀は石山本願寺に援軍を要請することにします。
その使者に森好久という武将を選びますが、彼は織田軍に属する筒井順慶に内通してしまいました。
森好久は信貴山城から出た直後に、順慶の陣地に駆け込み、信貴山城の内情を通報しています。
これを順慶は喜び、褒美として多額の金銭を渡し、自軍の200の鉄砲隊を預けた上で、石山本願寺からの援軍だと偽って城内に戻り、伏兵として活動するように命じました。
この裏切りによって、信貴山城は落城の危機にさらされることになります。
信長を二度裏切った久秀が、家臣の裏切りにあって最期を迎えることになるのは、ふさわしい報いであったとも言えるでしょう。
落城
10月9日より、再び織田軍による総攻撃が開始されますが、この時に順慶は内通した森好久を活用して手柄を立てるべく、先頭に立つことを織田信忠に願い出て、許されました。
筒井隊は城門に攻めかかりますが、松永勢から鉄砲や弓矢で攻撃を受け、さらに討って出て来た部隊に切り込まれ、撃退されそうになります。
しかし、この時に城内の三の丸から火の手があがり、松永勢は混乱に陥ります。
森好久が率いる200の鉄砲隊が寝返りを実行し、各所に火を放ったことで、城内の軍勢は浮き足立ち、その防御力は失われていきました。
城内では討ち死にする者や、力尽きて自害する者、逃げ出す者たちが続出し、久秀はいよいよ追い詰められます。
切腹と放火
もはや打つ手がなくなったと悟った久秀は、嫡子の久通とともに切腹し、城に火を放たせました。
(切腹はせずに焼死した、という説もあります)
このために四層の天守閣が炎上し、久秀が所有していた平蜘蛛という名物の茶釜も打ち砕かれています。
この時に久秀が平蜘蛛もろともに爆死した、という俗説がありますが、これは後世の創作であるようです。
焼け落ちた城からは久秀らの首が回収され、安土城の信長の元へと送られました。
こうして一代で低い身分から大名にまでのしあがり、将軍の側近にもなった久秀は、信貴山城とともに滅びました。
その遺体は筒井順慶が回収し、達磨寺に丁重に葬っています。
極悪人というほどでもないと思われる
こうして見てきたように、久秀は将軍の殺害や、東大寺の大仏殿の焼失に関与し、信長への二度に渡る裏切りなどを行っており、後世から非難を受けやすい要素は多分に備えています。
しかし、義輝の殺害は主導しておらず(関与の度合いも不明)、東大寺大仏殿の焼き討ちも、敵対していた三人衆の仕業であるという説があり、久秀が積極的に悪事を働いた、ということではないようです。
久秀は大和を支配するにあたり、寺社勢力と対立したため、死後に尾ひれがついて、過剰に悪人として非難されることが多くなりました。
また、異例の出世ぶりが世間からの妬みを買い、悪評が立てられやすい境遇にもあったようです。
松永氏は滅亡したため、久秀を擁護する資料を残す者がいなかったことも影響しているでしょう。
三好氏の一族を暗殺したという説もあるのですが、長慶らの死後にはむしろ三人衆との争いで不利な立場に置かれており、久秀が得をした形跡はありません。
長慶から厚い信任を受けていたからこそ、基盤を持たない成り上がり者の久秀の権力も強かったのであり、彼とその親族を害することは、久秀にとっては自殺行為でしかありませんでした。
これらの要因を考えると、久秀は善人ではないにせよ、極悪人と評するのは、やや過剰な見方であると思われます。
三好本家には忠実に仕えていた
久秀は長慶・義継と、三好本家に対しては忠誠を尽くしており、一度も裏切ったことはなく、このあたりは梟雄と呼べるほど悪辣なところを見せていません。
出世欲は旺盛であり、朝廷に多額の献金をするなどして地位を得ていましたが、それは特に悪事だとは言えないでしょう。
信長に対しては二度裏切っていますが、もとより信長に仕えたのは、危機を脱するための方便であり、心から尽くすつもりはなかったようです。
だからと言って、何度も裏切っていいということにはなりませんが、久秀にとって信長は、三好本家に匹敵するほどの存在ではなかったのでしょう。
長慶が早死にしたことで、三好氏は滅亡へと導かれましたが、久秀にとっても、長慶が失われたことの影響は大きかったのではないかと思われます。
もしも長慶が長生きをして天下を制していたならば、あるいは豊臣秀吉のように、低い身分から出世した人物の代表者として、後世まで語られるような存在になっていたかもしれません。
しかし秀吉との差は、主君の死後にその権力を継承できず、劣勢に追い込まれていったところにあり、そこに久秀の限界があったのだと言えるでしょう。