費詩 関羽の説得には成功するも、劉備の不興を買った直言居士

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諸葛亮に従って南征をする

その後、劉備が亡くなり、益州の南部で反乱が起きると、諸葛亮はこれを討伐するために南征を行いました。

その際に費詩は諸葛亮に随行して南に向かい、征伐が終わると、その帰途で漢陽県に立ち寄ります。

すると、魏から蜀に降伏していた李鴻りこうが、諸葛亮のもとに出頭しました。

諸葛亮がこの李鴻に接見した時に、費詩と、諸葛亮の側近である蒋琬しょうえんも同席します。

その場で、李鴻が次のように述べました。

「先ごろ孟達もうたつのところを訪れたのですが、たまたま王沖が南から来ていました。

そして王沖は孟達に、『以前のあなたのふるまいに、諸葛亮は歯ぎしりをして怒りを示し、あなたの妻子を処刑するつもりだった』と言いました。

『しかしながら幸いにして、先主(劉備)がそれを許さなかったのだ』とも述べます。

それに対して孟達は、『諸葛亮の判断は常に筋道だったものだ。だから絶対に、そんなことをしようとするはずがない』と言って、王沖の言葉を信用しませんでした。

このことから見るに、孟達の公(諸葛亮)に対する思慕の念は、衰えていなかったようです」

このままではわかりにくいので解説をしますが、孟達も王沖も、ともに蜀を裏切り、魏に降伏した人物です。

ここで王沖は「諸葛亮が孟達の裏切りに怒り、孟達の妻子を処刑しようとしたものの、劉備が止めたので実施されなかった」と偽りを述べたのでした。

孟達が魏に寝返ったのは、上役の劉封りゅうほうに圧迫を受けたためで、心から望んでのことではありませんでした。

そのような事情があったので、公正で道義を重視する諸葛亮が、孟達の妻子を処刑しようとするはずがないと、孟達は諸葛亮の人格への信頼を示したのです。

孟達への連絡に反対する

これを聞いた諸葛亮は、蒋琬と費詩に向かって言いました。

「都に帰ったら、手紙を出して孟達と連絡をとることにしよう」

諸葛亮は、孟達を再び蜀に寝返らせようと考えたのです。

すると費詩は、進み出て言いました。

「孟達は小人物でしかありません。

昔、振威しんい将軍(劉璋)に仕えている時には忠節をつくさず、後には、また先主(劉備)に反逆いたしました。

反覆はんぷく常なき男に、手紙を出す価値がありましょうか」

これに対し、諸葛亮は黙ったまま返事をしませんでした。

このように、費詩は常に相手を恐れずに、直言を述べる傾向にありました。

諸葛亮は孟達と連絡を取る

諸葛亮は結局、孟達を勧誘して再度寝返らせ、魏を攻撃する際に役に立てたいと考え、孟達に手紙を送りました。

その内容は、次のようなものでした。

「先年に南征をし、年末になって、やっと戻ってまいりました。

ちょうど李鴻と漢陽で出会い、あなたの消息をうけたまわり、万感が胸にわきあがり、長く嘆息をしました。

あなたの平素からの気持ちを思いやったからです。

私たちはいたずらに、虚しく名誉を重んじ、離れ離れの状態を続けて良いものでしょうか。

孟君よ、あのこと(裏切り)は劉封があなたを侵害し、それによって士人を待遇する道が損なわれた結果、起こったことです。

また李鴻は、王沖がでたらめの話をあなたに告げた時、あなたが私の心を忖度し、王沖の言葉を信用なさらなかったと、申していました。

その発言の趣旨を考え、平素よりの友好を追慕し、心をひかれて東を眺めやり、そのためにお手紙をした次第です」

「東を眺めやり」というのは、孟達はこの時、新城郡という、蜀の北東に隣接する土地の太守を務めていたからでした。

ここが蜀のものになれば、魏から領土を奪って圧迫することができますので、戦略上、重要な地点であり、このために諸葛亮は、孟達を再び蜀になびかせたいと考えたのでした。

なので、諸葛亮は費詩の進言を取り上げなかったのです。

この際、孟達の人格は問題ではなかったのでした。

費詩の言うことは、道義の上では間違っていないのですが、戦略上の役に立つものではなく、このために諸葛亮は無視をしたのです。

諸葛亮の成すべきことは魏の打倒であり、孟達が軽薄で、裏切りやすいことは、むしろ好都合ですらありました。

そのあたりを理解できていないことを知り、諸葛亮は、費詩はやはり大事を任せるには足りない人間だと、判断したことでしょう。

【次のページに続く▼】