法正は劉備に仕え、参謀として活躍した人物です。
特に侵攻作戦の立案を得意としており、漢中の奪取を主導しました。
この結果、劉備は漢中王となり、やがて蜀漢を建国するに至ります。
しかし法正は劉備が皇帝になった姿を見ることなく、漢中戦の翌年に死去しました。
この文章では、そんな法正の生涯を書いています。
扶風郡に生まれる
法正は字を孝直といい、扶風郡郿県の出身でした。
176年に誕生しています。
祖父の法真は学問に秀で、人を見る目があり、清廉な名士として知られた人物でした。
一方、法正は知謀は優れていたものの、人徳には欠けている面があったようです。
ちなみに出身地の郿は、長安に遷都した董卓が、拠点を構えていた土地でもありました。
益州におもむく
董卓の暴政によって天下に大乱が発生すると、やがて扶風郡も食糧不足に見まわれるようになります。
このため、法正は益州に移住し、刺史(長官)の劉璋に仕官します。
しばらくしてから新都の県令になり、軍議校尉にも任命されました。
しかし劉璋からはあまり評価されず、枢機には参画させてもらえませんでした。
これは同じ村の出身者で、劉璋に仕えていた者に、「法正は品行が悪い」と誹謗されていたことが影響しています。
このため、法正はうだつの上がらない日々を過ごすことになりました。
曹操が張松を怒らせる
法正は益州別駕(長官の側近)の張松と仲がよく、親しい付き合いがありました。
二人は、劉璋は器量が小さく、とても大事をなしえないだろうという思いを共有しており、密かにそれを嘆いていました。
そんな中、やがて208年になると、曹操が荊州の攻略を始めます。
すると張松は曹操に使いをして、益州の安全を守るため、同盟の締結を申し入れました。
曹操ははじめ、張松を丁重に取り扱っていました。
しかし長坂で劉備を破り、荊州の制覇を成し遂げたと思った曹操は傲慢になっていきます。
そして次に会ったときには、張松を歯牙にもかけない態度を取りました。
このために張松は立腹します。
劉備への使者に推薦される
一方で劉備は敗れた後、孫権と同盟を結んで曹操に赤壁の戦いで勝利し、名声が高まりました。
このため、張松が劉備に会いに行ってみると、曹操とは正反対に手厚くもてなされます。
これを受け、張松は劉璋に対し、曹操とは手を切り、劉備と同盟を結ぶことを勧めました。
すると劉璋は、劉備との同盟に賛成します。
そしてこの時に、張松は法正を劉備への使者に推薦しました。
こうして法正は、初めて劉備に会いにいくことになります。
劉備に心服し、益州奪取を計画する
法正は、当初は劉備をよく思っていなかったようで、これを辞退しました。
しかし張松が強く勧めたので、やむなく荊州に向かいます。
そして実際に劉備に会ってみると、張松と同じく、心からの歓待を受けました。
法正は荊州に滞在するうちに、劉備自身と、彼に仕える将軍たちの強さを知り、劉璋とは違い、確かな実力を持った存在だということを理解します。
このため、法正は劉備にたずねられるままに、益州の軍の配置や要害のありか、街道の接続などの機密情報を詳細に説明しました。
これによって劉備は益州の情勢をつぶさに知ることができ、また法正と張松が自分に心を寄せていることも知ったのでした。
法正は帰国すると、張松に「劉備は大変に優れた武略の持ち主だ」と称賛しました。
そして「劉璋にかわって益州の主にするべきだ」とも主張します。
法正は劉備に会って初めて、仕えるべき主君に出会った、という気持ちになっていたのでしょう。
張松もまた、劉璋に仕えていても先がないと感じており、劉備を迎えることに賛同しました。
しかし、すぐに事を起こせる情勢ではなかったので、しばらく機会をうかがうことになります。
張魯討伐を名目に、劉備を益州に招く
211年になると、曹操が漢中の張魯を討伐する、という噂が流れます。
漢中は益州の北部にあり、劉璋の領地と隣接していました。
ですのでここに曹操がやってくると、いずれ益州が奪われるのは時間の問題でした。
これを劉璋が大変に恐れたので、張松は好機だと判断します。
「劉備を益州に迎え入れ、張魯を討伐させるのがよろしいでしょう」と張松が進言をすると、劉璋はこれを受け入れました。
そして法正を使者として送り、劉備に援軍を要請させます。
法正は益州奪取を勧める
この時に法正は劉備に対し、次のように伝えました。
「殿の英才をもって、劉璋の惰弱を討ってください。
張松は劉璋の股肱の臣ですが、内部から呼応します。
益州の肥沃な土地を手に入れ、天与の堅固な地勢を頼みとなさいませ。
それらを元手にすれば、功業を成就するのはたやすいことです」
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