法正 劉備に仕え、蜀の建国に貢献した参謀の生涯

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劉備の重臣となる

こうして劉備が益州を支配すると、法正は蜀郡太守・楊武将軍に任じられました。

この時に劉備は諸葛亮・関羽・張飛、そして法正の四人に、等しく金銀などの財宝を与え、最も高い勲功があったと称賛しています。

このように、法正は劉備に仕えて数年で、一気に重臣の地位にまで登りつめたのでした。

そして劉備は法正を側近にし、作戦の立案を担当させています。

蜀郡太守としては批判される

さて、法正は蜀郡太守となり、この地を統治するようになったのですが、以前、自分にわずかでも恩恵を施した者には、その返礼をしています。

しかし一方で、ちょっとした怨みにも必ず報復し、かつて自分を誹謗していた者たちを、勝手に殺害してしまいます。

法正は記憶力がよく、そして執念深い性格だったのでした。

このような人が権力を握ると、とかく問題を起こしがちなものです。

諸葛亮も抑えず

法正の行為を見かねて、諸葛亮に「法正は蜀郡において、あまりに勝手をしすぎています。

主君(劉備)に言上なさり、彼の刑罰や恩賞に関する権限を制限するべきです」と述べた者がいました。

すると諸葛亮は「主君は荊州におられた頃、北の曹操に脅かされ、東からは孫権の圧迫を受けていた。

近くでは孫夫人が好き放題をして、変事を起こさぬかと心配していた。

このように進退が窮屈な時に、法正は主君を補佐し、二度と他人からの制約を受けずにすむようにしてくれたのだ。

そんな法正に、思いのままにするなと禁止するのは難しい」と答えました。

諸葛亮は法に厳正な性格でしたが、その諸葛亮ですら抑えるのが難しいと言うほど、この時期の法正には勢いがあったのでした。

また、諸葛亮と法正は、性格や才能が正反対と言えるほどに違っていましたが、互いに認め合っていました。

そして諸葛亮と法正は、ともに劉備の腹心の立場にありましたので、この両者が争うと、劉備陣営が二つに割れてしまう危険性もありました。

そのこともあって、諸葛亮は法正とぶつかるのを避けたようです。

法正と諸葛亮には、ともに『蜀科』という法律の制定にあたった、という事跡があり、協力的な関係にありました。

漢中への攻撃を勧める

劉備が益州を攻略した翌215年に、曹操が漢中を攻撃し、張魯を降伏させました。

この時に、曹操がそのまま南下して攻めこんでくるのではないかと取りざたされ、益州は恐慌に陥りました。

しかし曹操は間もなく漢中から引きあげたので、ことなきを得ています。

法正はこの情勢を見て、劉備に進言しました。

「曹操は一度の戦いで張魯を下し、漢中を平定しましたが、そのまま益州を制圧しようとせず、夏侯淵かこうえん張郃ちょうこうを守備に残して引きあげました。

これは彼の知謀が不足していたわけではなく、内部に差し迫った危機が発生したのでしょう。

夏侯淵や張郃の才能を推し量りますと、どちらも国家の将帥となるほどの器ではありません。

我が軍がこぞって討伐すれば、必ず勝つことができます。

そして勝利の後、農業を盛んにし、兵糧を蓄えて機会をうかがいましょう。

うまくいけば曹操を撃破して漢王室を復興させることができ、次善でも涼州や雍州を領有することができます。

もしもうまくいかずとも、要害に頼って守りを固め、持久の策を取ることができます。

これは天が我々に与えた好機であり、見逃してはいけません」

劉備は法正の策に賛同し、諸将を率いて漢中に攻めこみました。

定軍山の戦い

劉備は陽平関に陣を構えた後、山沿いに侵攻し、219年に定軍山で夏侯淵、張郃と対峙しました。

法正は夏侯淵らを打ち破るための作戦を考案し、劉備に積極的に攻勢に出ることを勧めました。

すると劉備はこれを採用し、夏侯淵に夜襲をしかけます。

まず、夏侯淵の陣営の柵に火を放ち、一斉に攻めかかりました。

夏侯淵は陣営の南を守り、張郃に東を守らせます。

この配置をみた劉備は、張郃に攻撃を集中させ、撃破しました。

すると夏侯淵は自軍の半分を割き、張郃の救援に向かわせます。

こうして夏侯淵の軍勢が半分になったのを見ると、法正は黄忠に命じて高所に登らせ、夏侯淵に攻撃をしかけせました。

黄忠はほこを突き立て突撃し、士卒を励まし、軍鼓を撃ち鳴らしつつ猛攻をしかけます。

すると黄忠はただ一度の戦いで夏侯淵の軍勢を打ち破り、夏侯淵の首を取って大勝を収めました。

こうして劉備は、法正と黄忠の活躍によって、漢中の奪取に成功したのでした。

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