先鋒に打撃を与える
こうして龍造寺軍が沖田畷に侵入を開始すると、守備隊は大木戸を基点として踏みとどまり、鉄砲を打ちかけ、弓矢を射て攻撃を開始しました。
龍造寺軍は島津・有馬連合軍を上回る鉄砲を装備していましたが、身動きの取りづらい湿地帯にいたため、思うように兵を展開できず、一方的に攻撃を受ける状態となってしまいます。
このために先鋒隊は大きな被害を受けて苦戦し、これを助けようと第二陣の部隊が救援に駆けつけますが、先鋒隊の周囲が深い沼に囲まれていたために、容易に近づくことができませんでした。
使者の督促
先鋒が予想外の苦戦をしいられ、行軍が遅滞しているのに気がつき、隆信は前線に使者を送って様子を探らせます。
しかし何を思ったのか、この使者は隆信に命じられていないことまでを、各隊の武将たちに伝えてしまいました。
この使者は「前がつかえて本隊が進めない。臆病風に吹かれず、命を惜しまずに敵に攻撃せよ」と隆信が言っていると伝えたため、臆病者のそしりを受け、侮辱されたと思った武将たちはいきり立ち、無謀な突撃を開始してしまいました。
この使者がどうして勝手にこのような発言をしたのかは不明ですが、隆信が本陣で苛立った様子を見せていたため、その感情を忖度して武将たちに奮起を促したのかもしれません。
このことが、龍造寺軍に決定的な破滅をもたらすことになりました。
伏兵の登場
こうして龍造寺軍のほとんどが沖田畷に深入りしたのを見て、それまで隠れ潜んでいた島津軍が姿を表します。
そして三方からの包囲体勢をとった上で、龍造寺軍に向けて鉄砲と弓で激しく攻撃を開始しました。
この戦法は「釣り野伏」と呼ばれ、島津軍が得意とする戦術のひとつでした。
このため、島津軍の動きは手慣れたものであったと思われます。
全軍が身動きが取りづらい湿地に足を踏み入れたとたんに、突如として現れた伏兵による激しい攻撃を受け、龍造寺軍は大混乱に陥ります。
損害を受けた部隊が後退しようにも、後方から他の部隊が使者に煽られて進軍しようと押しかけてくるため、身動きを取ることができません。
これを勝機と見た家久は全軍に抜刀攻撃を命じ、龍造寺軍に向かって突撃を敢行しました。
白兵戦と隆信の前進
こうして白兵戦が開始され、戦闘はさらに激しくなっていきます。
この時に両軍は互いに槍を捨てて刀で戦うほどに、白熱した接近戦を展開しました。
既に鉄砲や矢で甚大な被害を受けており、湿地帯に大軍が殺到する状況になっていたため、龍造寺軍はまともに統制が取れず、将兵の損害が拡大していきます。
圧倒的な大軍を擁しているにも関わらず、思わぬ苦戦をしいられたことで、隆信の苛立ちは頂点に達しました。
この状況を覆すため、隆信は最前線へと旗本隊を進ませます。
これが隆信がこの戦場でおかした、最後の過誤となりました。
大軍を備えているのですから、総大将自らが最前線に出る危険をおかす必要はなかったのですが、隆信はそれまで戦場で勝ち続けていた経験から、自分が前に出て指揮をとれば、劣勢を覆して勝利できると思いこんでしまったのでしょう。
また、これほどの大軍を率いた上で敗北を認めて撤退をするのは、隆信の矜持が許さなかったのだと思われます。
こうして隆信は、自ら死地へと足を踏み入れてしまいました。
ここで敗退を悟って軍を引かせていれば、大きな損害は受けても、龍造寺軍が壊滅するまでには至らなかったでしょう。
川上忠智隊が本陣に切り込みをかけ、隆信を打ち取る
龍造寺軍が崩れ立つ中、島津軍の川上忠智の部隊が、ついに露出した敵の本陣への切込みをかける事態となりました。
この頃にはすでに隆信の身辺を守る旗本隊も切り崩されていましたが、それでも隆信は撤退せず、床机に腰をかけたままでした。
隆信は肥満しており、普段の移動は6人もの人数で担ぐ駕籠に乗って行っていたとされています。
このため、危機に陥っても軽快に逃げることができなかったのでしょう。
隆信の奢りと怠惰の結果が、その体格にも現れていたのだと言えます。
隆信は思わぬ自軍の崩壊の有様にいきり立ち、歯噛みのひとつもしていたでしょうが、そうこうしているうちに、ついに川上忠智の嫡子・忠堅(ただかた)に発見され、斬りかかられました。
そしてたいした抵抗もできずに首を討たれてしまい、あえなく56年の生涯を終えています。
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