家久の提案
6千対3万という5倍もの戦力差があったため、有馬晴信の本拠・日野江城で開かれた軍議では、持久戦に持ち込んで島津の本隊が援軍にやってくるまで耐えるという、常識的な作戦が提案されます。
しかし家久はこれに反対しました。
家久の主張した作戦は、積極的に城から打って出て、沖田畷(おきたなわて)に陣を構え、ここで龍造寺軍を迎え撃って打撃を与えるという、大胆なものでした。
畷(なわて)、というのは田んぼと田んぼの間の狭い道のことを指します。
沖田畷は湿地帯と深田の間に通された、2、3人程度しか横に並んで歩けない狭い道で、ここであれば大軍であっても横に広く軍勢を展開しづらいため、数の有利をいかせない地形でした。
数に劣る島津・有馬連合軍からすれば、迎撃するのにうってつけの場所であったと言えます。
ここに罠をしかけ、龍造寺軍を深く湿地帯に引き込めば、少数で大軍を制することも可能である、というのが家久の提案した作戦でした。
この家久の主張は理にかなったものであったため、他の将士たちからも賛同を得ることができ、連合軍は積極的に打って出ることに決まりました。
これまでに大きな軍功のない家久から優れた作戦が出てきたことで、島津氏の武将たちは、目を見張る思いを抱いたかもしれません。
連合軍の出陣と迎撃準備
連合軍は沖田畷の進路を封鎖する大木戸を築き、近くにある森岳城の防御施設も増設するなどして、龍造寺軍を迎え撃つための準備を進めます。
沖田畷は東に浜道があり、西に前山があり、海と山に囲まれた地形でした。
まず大木戸の守りに50名という少数の兵を配置し、伊集院忠棟が1000名を率いて海岸線に潜み、新納忠元が同じく1000を率いて山裾に隠れ、家久は森岳城の背後に陣を張ります。
つまりは沖田畷を三方から囲むようにして、伏兵を配置したことになります。
大木戸を守る部隊をわずか50名にして、他の部隊の存在を見えないようにしたのは、防衛する部隊がわずかであると見せかけ、龍造寺軍を誘い込むための囮にするためでした。
有馬軍3千は森岳城に入り、城を守りつつ本陣を形成します。
こうして準備を万端にした上で、連合軍は龍造寺軍の到着を待ち構えました。
隆信の油断
こうして少数の連合軍が勝利を得るために知恵を絞って作戦を立て、準備を進める一方で、圧倒的な大軍を率いていた隆信は、驕り高ぶって油断していました。
重臣の鍋島直茂は、島津軍が援軍に来ていることから警戒を強めるようにと諌めましたが、隆信はこれに耳を貸さず、家久が罠をしかける戦場へと軍勢を進めさせます。
直茂は持久戦を行い、耐えきれなくなった島津の援軍が撤退するのを待てば、有馬軍を攻め潰すのは容易であるとして慎重な行軍を提案しましたが、隆信には受け入れられませんでした。
もしもここで直茂の助言を聞き入れていれば、龍造寺軍が大敗を喫することはなかったでしょう。
この頃の隆信は56年の生涯で積み上げた大きな成功によって、傲慢に染まりきっており、戦場では常にしなければならない慎重な気配りを欠いていました。
このあたり、37才にして一片の領地も持たない家久とは、対照的な心境にあったものと思われます。
戦闘の開始
隆信はろくに偵察もさせないまま軍を進め、やがて沖田畷の付近にまでやって来ます。
隆信は有馬と島津の本隊は日野江城に篭っているだろうと誤認しており、森岳城には少数の守備兵がいるだけだろうとたかをくくっていました。
小山に登って敵の陣営を眺め、大木戸に50名程度しかいないのを見て、自分の予測が正しいと確信し、配下の武将たちに命じて攻めかからせました。
隆信は軍を3隊に分け、森岳城を攻める本隊を自分で率い、鍋島直茂に山側を任せ、次男の江上家種に浜道を進ませました。
そして龍造寺軍の本隊の先鋒が攻めかかると、大木戸の前方を守っていた部隊は、ほとんど交戦をせずに後退をはじめます。
龍造寺軍を湿地や深田に引き込む作戦を立てていましたので、これは予定どおりの行動でした。
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