今川義元 東海から天下をうかがった「海道一の弓取り」

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信長の動向

Oda-Nobunaga_400

【義元に攻め込まれて危機に陥った織田信長の肖像画】

一方で織田信長の軍勢は清洲城に籠城するか、それとも出陣して迎え討つべきかで議論が分かれていました。

信長も初めは動きませんでしたが、今川勢が丸根・鷲津の両砦に攻撃を開始したのを聞き、早朝のうちに清州城から出陣します。

そして熱田神社に軍を集合させ、2500人程度の攻撃部隊を編成しました。

籠城をしても援軍のあてのない織田軍が活路を見出すのは難しく、信長は野戦において、一か八かの逆転を狙う決断を下したことになります。

そして前線に移動して今川軍の動向を探り、桶狭間の方面に敵軍がいることを察知します。

この時の信長は、桶狭間にいるのが義元率いる本隊だと知っていた、という説と、たまたま孤立した敵軍に野戦をしかけたらそれが義元の軍勢だった、という2つの説があるようです。

信長は今川軍の動向を探る斥候をあちこちに放っていたでしょうし、大将の率いる軍勢はその様相からして他の部隊とは異なりますので、義元が率いる本隊だと認識していた可能性は十分にあります。

いずれにしても、信長にとっては大軍を率いながらも小数で行軍する義元と直接戦える、千載一遇の機会を得たことになります。

桶狭間の戦い

この日は13時ごろから視界をさえぎるほどの豪雨が振りました。

これは信長を利し、義元の軍に気づかれないままに接近することを容易にしました。

そして信長は桶狭間にて、捕捉した義元の本隊に強襲をしかけます。

義元は驚愕したことでしょう。

信長軍は数では義元軍に劣っていましたが、戦意は高く、また豪雨に乗じた奇襲攻撃となったため、優位に戦いを進めます。

とは言え戦力が拮抗していたため、どちらの大将も自ら槍を振るって戦うほどの乱戦になりました。

戦況が不利だと悟った義元は親衛隊に守られて退却しようとしますが、激しい攻撃を受けるうちにはぐれてしまい、ついに信長軍の精鋭部隊である馬廻(うままわり)に補足されてしまいます。

義元は切りつけられながらも服部一忠を返り討ちにしましたが、毛利新助によって組み伏せられ、ついに首を討たれてしまいます。

総大将と、側にいた有力な武将を数多く討ち取られたことで今川軍は戦意を喪失し、残った諸将は駿河に向かって退却しました。

大軍を率いながらも戦場で総大将が討たれてしまうのは、戦国時代でもかなり珍しい事態であり、この戦いをきっかけとして、今川氏は一気に転落していくことになります。

それまでに周到に準備を重ねた義元の戦略も、ただの一戦で灰燼に帰してしまいました。

この日を境にして新興勢力である信長は躍進を始め、旧勢力である義元の勢力が没落を始めたことから、「桶狭間の戦い」は戦国時代の象徴的な事件として広く知られています。

義元はなぜ敗れたか

義元が2万対5千という圧倒的に有利な状況を作りながらも敗れたのは、ひとえに敵が攻撃可能な範囲で、大将自らが孤軍となって行動したことに尽きるでしょう。

安全な後方から指揮をして、常に他の部隊と連携して行軍することに徹していれば、このような事故は防げたはずです。

戦上手な太原雪斎が存命であれば、義元にこういった軽率な行動は取らせなかったでしょう。

義元はこれまで、前線の戦いは雪斎などの有能な諸将に任せ、自身が戦場に出た経験が乏しかったため、大将がしてはならないことに対する警戒心が薄かったのかもしれません。

この時の義元は戦国大名として豊富に経験を積んでいたことから、信長よりも戦略的な能力は勝っていたかもしれませんが、戦術的には劣っており、それがこのような大敗につながってしまいました。

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