今川氏の没落
義元の死後、今川氏は急速に勢力を弱めていくことになります。
まず西三河で松平元康が自立を宣言し、今川氏の支配下から脱します。
この応じて東三河でも国人領主たちが離反し、松平氏の支配下に入っていきます。
そして遠江では桶狭間の戦いで多くの領主が戦死したことから、家督争いが頻発し、今川氏の支配を快く思っていなかった勢力が謀反を起こすなどして混迷が深まります。
義元の後を継いだ氏真は、井伊氏や飯尾氏といった遠江の有力な領主を粛清し、余計に人心の離反を招いてしまいます。
これによって今川氏は自領の統治すら満足に行えなくなりました。
そして桶狭間の戦いから8年後の1568年には、徳川家康(松平元康から改名)と武田信玄に攻めこまれ、駿河と遠江を分割して占領され、戦国大名としての今川氏は滅亡します。
氏真は追放されて北条氏に身を寄せますが、外交関係の変化によってそこからも追い出されます。
最後には、かつては父の配下だった徳川家康の家臣になりました。
江戸幕府が成立すると500石の旗本として仕え、明治時代まで家は続いています。
ちなみに、今川氏の最大勢力は70万石程度でした。
このようにして家は残ったものの、義元の死を契機に、見る影もないほどに衰退してしまったことになります。
義元への後世からの評価
義元は大軍を率いながらも桶狭間で信長に討たれた、という結果だけが広く知られているため、無能だと語られることが多い戦国大名です。
しかし、家督相続後には家中の統一や領土の拡大といった結果を残しており、政治や外交面に関しては、決して無能な人物ではありません。
太原雪斎のような優れた家臣の補佐を得て、今川氏の最大勢力を築くことに成功しています。
長い時間をかけて大きな勢力を再編し、勢力を伸ばせるようになり、それも順調に行っていたのに、ただ一度の敗戦ですべてを覆されてしまうのが、戦国という時代の恐ろしいところだ、と言えるのかもしれません。
尾張に侵攻した時の相手が織田信長だった、という巡りあわせに祟られた、というべきでしょうか。
義元も家督相続後に老獪な北条氏綱に苦しめられましたが、信長にとってのそれが義元だったとも言えるでしょう。
義元の場合には逆転されて命まで取られ、信長躍進のきっかけを作ってしまいましたが。
桶狭間での大敗の原因は、義元の判断の誤りによるところが大きいため、指揮官としての能力の評価は低くなってしまうのは、仕方のないところだと思います。
太原雪斎の影響
太原雪斎は義元の教育係で、義元が少年の時代から親しい関係にありました。
義元が今川氏の家督を継いだ後は、内政・外交・軍事の全てに渡って義元を補佐し、その勢力の伸張に尽くしました。
それほどに太原雪斎は有能で、かつ子どもの頃からの付き合いですから、義元から深く信頼されていました。
そのため、義元は何事も太原雪斎と二人だけで相談し、今川氏の取るべき戦略を決めていたと言われています。
これが太原雪斎の死後にはあだとなって、今川氏の統治体制が揺らぐ原因になってしまいました。
それまでに他の家老たちを軽んじていたため、太原雪斎の代わりを務められる人材が育っておらず、組織としては弱体化してしまったのです。
たとえば太原雪斎の他にも軍事顧問を務められる武将がいれば、義元に桶狭間で孤立するような行軍をさせなかったことでしょう。
太原雪斎ひとりに頼るところが大きすぎたため、その生死と今川氏の興亡が同期してしまったことになります。
優秀な副将が去った後に急激に勢力が衰退する例は歴史上にしばしばありますが、今川氏の場合もそれに当てはまっているように思えます。
【太原雪斎が開山した臨済寺。彼が存命であれば義元が敗れることはなかったと思われる】