竹千代の奪還
義元は竹千代の奪還を計画し、それはまたも太原雪斎に任せます。
雪斎は2万の大軍を率いて三河の安祥城を攻略し、織田信秀の庶長子である信広を捕縛します。
そして人質交換によって竹千代を奪還し、以後は配下として扱い、松平氏を完全に支配下に置くことにも成功します。
こうして三河を今川氏の領国として制圧し、駿河・遠江・三河の三ヶ国を支配する大大名としての地位を確立しました。
そして1551年に織田信秀が死去して織田氏の勢力が弱まったのをみて、尾張への侵攻も企図するようになっていきます。
この頃が義元の勢力の全盛期で、「海道一の弓取り」と呼ばれるにふさわしい実力を備えていました。
織田信秀の後を継いだ信長はうつけものとの評判でしたし、尾張への侵攻も順調に進んでいく、はずでした。
三国同盟の成立
義元は尾張への本格的な侵攻を開始するより先に、後背の安全の確保を図ります。
1554年に今川氏と武田氏、そして北条氏の三勢力が相互に婚姻を結び、同盟を組むことで北と東を安全にすることができました。
これを「甲相駿三国同盟」と言います。
今川氏はこれによって西の尾張に集中し、武田氏は北の信濃に集中し、北条氏は東の関東に集中して勢力を伸ばせる体制を作ったことになります。
この時にも雪斎の働きによって、この同盟が実現したと言われています。
しかし雪斎はこの翌年に死去してしまいました。
最も信頼でき、かつ有能な家臣を失った義元は、ここからひとりで勢力の拡大に取り組んでいくことになります。
家督の継承と侵攻の準備
1558年には家督を嫡男の氏真に譲り、駿河や遠江の行政を担当させるとともに、義元自身は新しい領地である三河の支配を確立し、尾張への侵攻の準備に専念できる体制を作りました。
三河侵攻以後の義元の戦略・外交手腕は確かなもので、ただの名門の家を継いだだけの人物ではないことを示しています。
実務面はほぼ太原雪斎に任せきりでしたが、優れた家臣に仕事を委ねてその果実を受け取るのも、主君のあり方の一つだといえます。
もしも義元がこのまま肥沃な尾張の支配にも成功していたならば、今川氏の勢力は、あるいは天下にも届いたかもしれません。
そして義元は、後世からそしられるようなこともなかったでしょう。
尾張への侵攻
1560年、準備を整えきった義元は、満を持して駿河・遠江・三河の軍勢を合わせた、2万の大軍を率いて尾張への侵攻を開始します。
この侵攻に際し、まず義元は松平元康(元服した竹千代)が率いる三河勢や、有力家臣・朝比奈泰朝に織田方の砦を攻略させます。
義元自身は今川方の尾張侵攻の拠点・沓掛城(くっかけじょう)に入って戦況を見守ります。
やがて松平元康と朝比奈泰朝が、織田方の前線基地である丸根・鷲津砦の攻略に成功し、この報を聞いた義元は、今川方の城である大高城方面へと本隊を進ませます。
この時の尾張侵攻は、この大高城の救援もその目的に入っていたためです。
大高城は尾張沿岸部の城で、先に今川方の城になっていましたが、織田方に近隣を侵攻されて連結を絶たれ、孤立した状態になっていました。
この時、大高城方面に向かった義元の本隊は、5000人程度であったと言われています。
先行して松平元康が大高城に入っていたので、そこで合流して前線をさらに押し上げていくつもりだったのでしょう。
義元の軍勢は2万もいましたが、この時は他の部隊との連携を欠いた状況で、本隊は孤軍となって移動していたことになります。
このあたり、義元にはいささか油断があったのかもしれません。
織田信長の軍勢は総勢で5000程度でしたし、そのうちの半数は各拠点の防衛にさいていましたので、5000の部隊が単独で活動しても問題はないだろうと判断していたのでしょう。
しかしその見通しが甘かったことを、義元は思い知らされることになります。
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