堤防の建設
三成たちは堤防を築くため、付近の村落に募集をかけて作業員を集めます。昼に働けば米1升と銭60文、夜ならば米1升に銭100文を報酬として与える、というのが募集条件でした。
夜の方が賃金が高くなるのは、今も昔も変わらないようです。
こうして昼夜交代で人足たちを働かせ、6月9日の夜に起工すると、14日の正午には、早くも堤防が完成しています。
全長はおおよそ14km(28kmの説もあります)で、高さは2〜4メートル、幅は12メートル程度だったと言われています。
これほどの大工事を短期間で終わらせていることから、三成や大谷吉継らの建築の手腕が優れていたことが証明されています。
(これは「石田堤」と呼ばれ、現在では史跡になっています。)
三成たちは堤防が完成すると、部隊をその背後に移動させ、忍城の周囲を利根川の水で満たし、これを沈めようとしました。
しかし思ったよりも水量が乏しく、城は水面上に浮いたままになってしまい、目的を達成することができませんでした。
そして諸隊に城の包囲を解かせて移動させた結果、守備隊の一部が外に出て、近隣の村から食糧や物資を調達して戻るなどしてます。このために水攻めの策は、かえって守備側に有利に働くことになってしまいました。
このままでは成功がおぼつかないので、三成たちは荒川をもせき止める措置をとり、これによってようやく水量が増えていきます。
暴風雨によって堤防が決壊する
やがて堤防ができて4日後の6月18日になると、猛烈な風雨が忍城の周辺を襲い、ついに城が水の底に沈みかける事態になります。
しかしこの時に堤防が決壊し、濁流にのみ込まれて攻撃側に270名もの溺死者が出ました。
これは堤防の建設に参加した住民が、忍城の守備隊に同情して工事の手を抜いた結果だとも、城から出撃した決死隊が堤防を打ち崩した結果だとも言われています。
いずれにせよ、こうして水攻めの計画は失敗に終わりました。
結局のところ、包囲軍は秀吉の命令によって、多額の費用と9日間を無為に費やしてしまったことになります。
秀吉は城攻めの名人でしたが、さすがに現地を見もしないで、適切な計画を立てて実施させるのは難しかったのでしょう。
しかしながら、秀吉自身はこれまでに三度も水攻めを成功させていましたので、この策に自信を抱いており、それゆえに固執し続けています。
失敗を認めると体面が損なわれるからやめたくない、という気持ちもあったでしょう。
援軍の攻撃
三成たちはやむなく再び忍城を包囲しますが、水攻めを行った影響で、道路がぬかるんで泥だらけになってしまい、攻撃を行うのがさらに難しくなってしまいます。
こうして三成たちが攻めあぐねていることが伝わると、秀吉は浅野長政と真田昌幸の両将が率いる6千の部隊に、忍城攻略の支援を命じました。
浅野長政は秀吉の妻・ねねの弟で、諸事に熟達した良将です。そして真田昌幸は知謀に長け、戦の名人とも言えるほどの優れた武将で、忍城にとっては強敵が参戦して来たことになります。
こうして包囲軍は2万9千にも膨れ上がりました。
援軍として参戦した浅野長政は7月1日になると、城の西北部の皿尾口に隙が生じているのを発見し、進軍して攻撃を開始します。
すると守備兵が崩れ立ち、防ぎきれずに城内に撤退しました。こうしてようやく、豊臣軍は防衛線の一角を崩すことができたのでした。
そして戦闘によって疲労した浅野隊は真田隊と交代し、ひとまず城外に引き下がります。
守備隊はこれに対し、皿尾口を奪還しようとして夜襲をしかけますが、真田昌幸に動きを読まれており、あえなく撃退されました。
こうして援軍の活躍によって、ようやく豊臣軍は活路を見いだせそうな状況になります。
一方で忍城の守備隊にとっては、正念場が訪れたことになります。
総攻撃
三成は浅野長政や大谷吉継と相談し、残る三面から総攻撃をしかけ、一気に忍城を攻め落とそうと計画しました。
そして7月5日に石田隊が下忍口を、浅野隊と長束隊が長野口を、大谷隊が佐間口を攻めることが決定されます。
当日になると、石田隊は早朝から下忍口に攻め込みました。
下忍口の守将・酒巻靭負は警鐘を打ち鳴らして襲撃を知らせ、城兵を集めると城壁を背にして退路を断ち、決死の覚悟で石田隊を迎え撃ちます。
石田隊2000はこれを突き崩すことができず、かえって死者300、負傷者800という多大な損害を負い、退却せざるを得なくなりました。
半数以上が死傷していますので、なんとしてもこの日に忍城を攻め落とさんと、三成も相当な覚悟をもって戦いに挑んでいたことがわかります。(損害が大きすぎるので、過大に記録されている可能性もありますが)
一方で浅田長政は、石田隊の攻撃の物音を聞いて抜け駆けをされたかと思い、こちらも急ぎ長野口への攻撃を開始しました。
この方面では、長束正家の部隊が水田を越えて守備隊の背後に回り込み、浅野隊と協力して挟撃し、撃破に成功しています。
しかし守備隊が壊乱して行田門にまで逃げ帰ると、守将の島田出羽守が200の兵を率いて出撃し、敗残兵を救援しつつ奮戦しました。
このため、戦況が膠着状態に陥ります。
行田門で激戦が行われているのを知ると、佐間口を守っていた正木丹波守が50の精鋭を率いて救援に向かいます。
そして門に迫っていた浅野隊と長束隊の側面から攻撃をしかけてこれを切り崩し、このために両部隊もまた撤退を強いられました。
浅野・長束隊の損害は死傷600で、こちらもかなりの被害をこうむったことがわかります。
残る大谷吉継も佐間口を攻めましたが、城兵たちがよく守り、行田門の救援に行った正木が引き返してきて攻撃されたことで、彼も撤退に追い込まれました。
この時に甲斐姫も戦いに参加し、豊臣方の武将を討ち取ったと言われています。
こうして守備隊は死力を尽くして奮戦し、総攻撃を跳ね返すことに成功しました。
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