北方の平定に貢献する
その後、徐晃は別軍として毛城を討ち、伏兵を配置して攻撃をしかけ、三つの屯営を打ち破りました。
そして南皮における戦いに従軍して袁譚を破り、平原の反乱軍も鎮圧しました。
また、袁氏に協力していた烏丸賊の王・蹋頓の征伐にも従軍しましたが、これによって曹操軍は北方の平定に成功します。
徐晃はこれらの戦いにおける功績によって、橫野将軍に昇進しました。
荊州や太原の戦いに参加する
袁氏を討ち果たすと、曹操は南の荊州に攻め込みましたが、徐晃はこの時、別軍を率いて樊城に駐屯します。
そして中廬、臨沮、宜城らで敵を討ちました。
また、満寵とともに漢津において関羽を攻撃し、曹仁とともに江陵で周瑜と戦います。
二一〇年になると、太原の反乱を鎮め、大陵を包囲してこれを打ち破り、賊の大将である商曜を切り捨てました。
このようにして、徐晃は引き続き、安定した活躍を見せています。
馬超との戦いで活躍する
やがて韓遂と馬超が西部で反乱を起こすと、徐晃は汾陰に派遣され、この地に駐屯して河東の鎮撫を担当します。
この時に曹操から牛と酒を賜り、先祖の墓に詣でて祭りました。
それから曹操は潼関に到着し、馬超らと対峙しましたが、河を渡ることができるかどうかを危ぶみ、徐晃に諮問します。
徐晃は「公がここで兵を盛んにしておられますのに、賊は蒲阪に別働隊を配置し、守らせています。
これはなんとも無謀であり、思慮が足りていません。
私に精兵を預けてくだされば、蒲坂津を渡り、我が軍のために陣地を設営し、敵の背後をおびやかしましょう。
そうすれば賊を捕らえることができます」と提案しました。
曹操は「よい提案だ」と認め、徐晃に四千の歩兵と騎兵を預け、津を渡らせます。
するとまだ塹壕や柵が完成しないうちに、賊の梁興が歩兵と騎兵五千を引き連れ、徐晃に夜襲をしかけてきました。
徐晃はこれを撃退し、逃走させます。
これによって河の向こうが安全になったので、曹操軍は渡河することができ、馬超らを撃破することができました。
西方を討伐する
徐晃はその後、夏侯淵とともに隃麋や汧の氐族(異民族)を平定し、曹操と涼州の安定郡でおちあいました。
曹操は鄴に帰還しましたが、徐晃と夏侯淵は引き続き鄜と夏陽にいた賊の残党を討伐します。
そして梁興を斬り、三千戸以上を降伏させました。
また、漢中で割拠していた張魯の討伐にも従軍し、別働隊を率いて櫝や仇夷などの山氐氏を攻撃し、みな降伏させています。
この功績によって、平寇将軍に昇進しました。
それから包囲されていた将軍の張順を救出し、賊である陳福に属する三十以上の屯営をことごとく撃破します。
こうして徐晃は、北方に続いて西方の鎮撫でも活躍したのでした。
劉備軍を防ぐ
漢中の平定後、曹操は鄴に戻り、徐晃と夏侯淵を留め置きました。
そして陽平で劉備を防がせます。
劉備は配下の陳式ら十以上の部隊を派遣し、馬鳴閣道を断ち切ってきます。
徐晃は別軍を率いてこれを攻撃し、撃破しました。
この時、劉備軍の兵士たちは自ら山谷に身を投じ、死亡した者が多数にのぼります。
曹操はこれを聞くと大変に喜び、徐晃に節(指揮権)を与えました。
「この閣道は漢中の険しい要害であり、喉元にあたる場所だ。
劉備は外と内を断絶し、漢中を取ろうとした。
将軍の一挙は賊の計画を打ち破った。
まことによき働きである」
しかしその後、劉備は夏侯淵を討ち取って曹操軍に大きな打撃を与えました。
このため、曹操は自ら陽平にまでおもむき、漢中の諸軍を連れ戻しています。
荊州に向かう
その後、荊州南部にいた関羽が北上し、曹操軍に攻めかかってきます。
すると曹操は徐晃に命じ、荊州を守る曹仁を支援させました。
徐晃は宛に駐屯しましたが、そのころに荊州北部を流れる漢水があふれ出します。
そして曹仁の救援に向かっていた于禁の陣営が水没し、関羽に降伏しました。
それから関羽は樊城で曹仁を、襄陽で将軍の呂常を包囲し、曹操軍を追いつめていきます。
反撃に転じる
この時、徐晃が率いていた兵の多くは新参者たちだったので、関羽と争うのは難しい状況にありました。
このため、ひとまず前進して陽陵陂に駐屯します。
すると曹操は、将軍の徐商や呂建らを徐晃の元に援軍として送り、「兵馬が集結したら、ともに前進せよ」と命じました。
やがて関羽側の軍勢が偃城に駐屯します。
徐晃は偃城に向かうと、計略をしかけるために塹壕を掘り、敵の背後を絶とうとしているように見せかけました。
すると敵は屯営を焼き払って逃走します。
徐晃は偃城を得ると、両面に陣営を連ね、少しずつ前進しました。
そして敵軍の包囲から三丈ほど離れたところにまで移動します。
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