徐晃 関羽を撃破するなどし、魏の覇権に貢献した名将

スポンサーリンク

関羽を撃破する

まだ攻撃にうつらないうちに、曹操は殷署いんしょ朱蓋しゅがいら、十二の軍営の兵士を徐晃に合流させました。

こうして徐晃の元には何度も援軍が送られ、兵力が充実します。

この時、関羽は囲頭いとうに屯営を構え、また別に四冢しちょうにも構えていました。

徐晃は囲頭を攻撃すると喧伝しつつ、密かに四冢に向かい、攻撃します。

関羽は四冢の屯営が破壊されそうになっているのを知ると、自ら五千の歩騎兵を率いて出撃しました。

徐晃がこれを迎撃すると、関羽は退却します。

そのまま徐晃は追撃をかけ、関羽軍の包囲陣の中にまで突入し、これを打ち破りました。

このため、関羽軍の中には自らべん水に身を投げ入れ、溺れ死ぬ者たちがいるほどでした。

曹操に称賛される

徐晃の活躍によって、関羽は荊州北部の攻略をあきらめて撤退します。

そして南から攻め上がってきていた孫権軍に捕縛され、処刑されました。

この結果を受け、曹操は次のように布告を出します。

「敵の包囲陣の塹壕や杭は十重にもなっていたが、将軍は戦いに全て勝利した。
そして敵の包囲陣を陥落させ、たくさんの首を斬り、生け捕りにした。
わしは兵を用いて三十年以上にもなり、古代からのよき用兵者たちの話を聞き知っているが、いまだかつて、長駆して敵の包囲陣に突入した者はいない。
そして樊城や襄陽の包囲されていた様子は、きょ即墨そくぼくよりも厳しいものだった。
ゆえに将軍の功績は、孫武や司馬穰苴じょうしょにも勝るものである」

(孫武は孫子として知られる兵法家で、司馬穰苴も著名な古代の兵法家です)

徐晃は摩陂まひに帰還しましたが、曹操は徐晃を七里ほど出向いて迎え、大きな宴会を催してその功績に報いています。

曹操はその席で、杯を挙げて酒を徐晃に勧めつつ、ねぎらって言いました。

「樊と襄陽を守り切ることができたのは、将軍の手柄だ」

この時、諸軍はみな集合していましたが、曹操が諸陣営を見て回ると、士卒はみな陣を離れてその様子を眺めました。

しかし徐晃の軍営は整然としており、将士は陣に不動のまま待機しています。

曹操はこの様子を見て感嘆し、「徐将軍には周亜夫しゅうあふの風格がある」と賞賛しました。

周亜夫は前漢の時代の名将で、皇帝に対しても陣中での作法を守るよう求めた、厳格な人物のことです。

その後も活躍する

曹操が亡くなり、曹丕が魏王に即位すると、徐晃は右将軍になり、逯鄉たいきょう侯に昇進しました。

そして皇帝に即位すると、楊侯に位を進められています。

その後、夏侯尚とともに上庸じょうようで劉備を撃破しました。

そして陽平を鎮める役割を担い、陽平侯に封じられます。

曹丕が亡くなり、曹叡が即位すると、襄陽において呉の将軍である諸葛きんの攻撃を防ぎました。

これによって二百戸の加増を受け、合わせて三千百戸となります。

やがて病気が重くなると、時節の服で身を包むようにと遺言をしました。

徐晃の性質

徐晃は倹約を重視し、慎み深い性格の持ち主でした。

常に遠くまで斥候を送り、勝てない場合に備えておき、それから初めて戦いに望みました。

逃げる敵を追って戦果を拡大しようとしている時には、兵士たちに食事の時間も与えませんでした。

徐晃は常に嘆息して、このように述べていました。

「古人は明君と出会えないことを気に病んでいた。
今は幸運なことに巡り合っている。
だから常に功績を立てるために努力しなければならない。
個人の名誉のためではない」

この言葉から、徐晃が曹操に仕えていることに、深く満足していたことがうかがえます。

徐晃は生涯にわたり、徒党を作るようなことはしませんでした。

やがて亡くなる

太和元年(二二七年)に亡くなり、壯侯とおくりなされています。

子の徐蓋が後を継ぎ、徐蓋が亡くなるとその子の徐が後を継ぎました。

曹叡は徐晃の領地を分割し、徐晃の子孫の二人を列侯に封じています。

徐晃評

徐晃はこのように、戦いにおいては敗北の記録がなく、作戦を立案する能力も備えており、大変に優れた武将でした。

それでいて、性格は謹厳で、忠誠心も高い人物でしたので、曹操から高く評価されたのは当然のことだと言えます。

正史の中では、張遼、楽進、于禁、張郃らとともに、魏における最良の将軍の一人だと評されています。