白林山の戦い
岩崎城で激戦が行われていた頃、羽柴秀次が率いる8千の部隊は、尾張の白林山で休息を取っていました。
家康は水野忠重や榊原康政らの別働隊に攻撃を命じ、彼らは4月9日の午前4時頃、まだ夜も明け切らないうちに、奇襲攻撃を敢行します。
徳川軍の接近をまるで予期していなかった秀次の軍勢は、背後と側面からの突然の攻撃を受けて壊乱し、秀次は馬も失い、自らの足で走って逃げるありさまでした。
この時に、秀次に付けられていた親類の武将たちが戦場に踏みとどまり、秀次を逃がそうと、戦死するまで奮戦したおかげで、かろうじて秀次は撤退に成功しています。
堀秀政の活躍
早朝に秀次隊が壊滅したと知った堀秀政は、敗残兵たちを吸収し、秀次を保護しつつ、桧ヶ根(ひのきがね)に布陣し、万全の態勢を敷いて徳川軍の別働隊を待ち受けました。
そこに戦勝の勢いをかった、徳川方の別働隊が攻めかかってきましたが、堀秀政は3千の手勢を巧みに指揮し、これを返り討ちにします。
この時に別働隊は300人もの死者を出したと言われており、堀秀政の優れた指揮ぶりが際立っています。
家康は別働隊の敗戦を知り、堀秀政と池田恒興・森長可を分断するべく、本隊を率いて富士ヶ根という場所まで進軍しました。
堀秀政の撤退と、池田恒興・森長可の孤立
堀秀政は勝利を収めたものの、遠くから家康の馬印である金扇を見かけ、敵軍を家康自らが率いていると知ります。
このため、これ以上この地に踏みとどまるのは危険だと悟り、池田恒興や森長可からの援軍要請を無視して撤退を始めました。
秀次の身柄を秀吉から預かっていましたので、無理をして敗北することを避けたのでしょう。
名人と言われるだけに、戦場での進退の判断は確かでしたが、池田恒興や森長可を見捨てたわけであり、非情な決断だったと言えます。
このように、各武将の連携意識が乏しいことが、寄せ集めの連合軍である、秀吉軍の弱点でした。
長久手の戦い
こうして家康と信雄と、池田恒興と森長可の間で決戦が行われることになります。
家康は1万の部隊を分け、右翼に自身が布陣し、左翼は重臣の井伊直政と信雄に任せました。
これに対し、池田隊は6千、森隊は3千で、総勢で9千であり、数の上ではほとんど差がありません。
このため、両軍の大将の指揮能力が勝敗を決定する要因になります。
10時頃に戦端が開かれると、森長可の奮戦によって、激しい戦いになりました。
森長可を狙撃で討ち取る
勇猛で知られる森長可は自ら最前線に立ち、槍を振るって敵を蹴散らし、徳川軍を寄せ付けませんでした。
しかし指揮官自らが最前線に立っているのなら、これを討ち取ってしまえば戦況が簡単に変えられるわけで、家康は鉄砲を用いて森長可を狙撃することにします。
鉄砲隊からの集中攻撃を受けた森長可はやがて被弾し、落馬して戦死してしまいました。
大将を失った森隊は敗走を始め、戦力の均衡が崩れます。
池田隊も壊滅する
劣勢となった池田恒興は、戦場に踏みとどまり、なんとか態勢を立て直そうとしますが、既に手遅れでした。
森隊の壊滅によって包囲される形勢となった池田隊も壊滅し、逃げ遅れた恒興は、家康の家臣・永井直勝に討ち取られています。
さらに恒興の嫡子・池田元助も討ち取られ、池田家は当主と後継者を一度に失うことになりました。
この日の戦いで、秀吉軍の別働隊は2500という多大な死傷者を出し、全軍が撤退に追い込まれます。
これに対し、徳川・織田軍の損害は500程度でしかなく、家康の圧勝だったと言えます。
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