徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

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秀吉が出陣するも、本多忠勝の妨害を受ける

別働隊が壊滅した、という知らせを聞いた秀吉は驚愕しますが、家康が小牧山城を離れていることも知り、すぐに2万の軍勢を率いて出陣しました。

そして小幡城に戻っていた家康を襲撃しようとします。

この時に家康の重臣・本多忠勝が500の兵を率い、秀吉軍の前に姿を現しました。

忠勝は三河の守備を家康から命じられていましたが、家康の身に危険が迫っている事を察知し、手勢を率いて駆けつけて来たのです。

そして忠勝は大軍を前にして、ゆうゆうと河原で馬に水を飲ませる姿を見せつけ、秀吉軍を挑発します。

秀吉の家臣たちは憤り、忠勝に攻めかかって討ち取ることを進言しますが、秀吉は忠勝の忠義を惜しみ、攻撃することを許しませんでした。

このように、いざとなれば命がけで家康を守ろうとする武将が多く、結束が強いことが、徳川軍の強みであったと言えます。

このあたりは秀吉軍と対照的でした。

秀吉はこの戦いに勝利し、いずれは忠勝も自分の家臣にしてくれよう、と強気の発言をしていますが、あのような忠誠心の高い家臣が欲しい、というのは本音だったと思われます。

秀吉の出動は空振りに終わる

その後も本多忠勝は秀吉軍の行軍を遅滞させるべく、盛んに周囲に姿を現し続けました。

その影響もあって、秀吉が小幡城に到着したときには、既に家康は小牧山城に帰還しており、再び防御を固めて持久戦の構えを取っています。

こうして長久手の戦いは家康の完勝に終わり、秀吉は面目を潰されたことになりました。

この一戦によって秀吉は、家康とその家臣たちはあなどれない、という印象を強く抱いたことでしょう。

一方で家康は、きわどい状況を切り抜け、見事な勝利を得たことに安堵しつつ、秀吉とも渡り合えると、自信を深めたと思われます。

美濃と尾張での攻防が続く

森長可や池田恒興が戦死したことにより、美濃の秀吉方の勢力が減退し、この隙をついて徳川軍は侵攻をしかけます。

家康に仕える遠山利景が、旧領である明智城を奪還し、美濃に領地を得ることに成功しています。

5月には秀吉も態勢を立て直し、尾張の竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)に水攻めをしかけました。

この時に家康は援軍に向かわず、無理をせずに降伏するように城主に勧告しており、全ての戦いに勝利しようとはしていません。

戦力では秀吉の方が上回っていますので、不利な状況でむやみに動いて戦力を損なわず、勝てそうな時にだけ攻撃をしかける、という戦法に徹したのです。

秀吉はこの時、竹ヶ鼻城を攻めて家康をおびき出そうとしていたのですが、策が空振りに終わったために、城主の降伏を許して戦いを終結させました。

こうして家康はまたしても、秀吉の策をいなす事に成功しました。

この時に家康は41才でしたが、武将としての成熟期を迎え、的確な判断力が備わっていたことがわかります。

長宗我部元親が動き、秀吉が大坂に戻る

6月10日に竹ヶ鼻城が落城すると、ちょうどこの頃に長宗我部元親が、讃岐(香川県)の平定に成功しています。

讃岐は大坂の対岸にありますので、秀吉にとっては、本拠が攻撃される危険が、再び発生したことになりました。

家康は元親に使者を送り、勝利のあかつきには摂津や播磨(大坂と兵庫県南部)、淡路の三ヶ国を与えると約束し、渡海して秀吉の領地を攻撃してほしい、と要請しています。

この三ヶ国はいずれも秀吉の領地でしたので、与えると言っても元親が自分で奪わなければならないのですが、元親が渡海を匂わせる行動を取ったことで、秀吉はこれを警戒し、大坂に帰還しています。

紀州の根来衆も引き続き大坂をうかがっていましたので、秀吉はいつまでも尾張や美濃に張り付いているわけにはいかなかったのです。

この戦役を通して、秀吉は東と西の戦線を行ったり来たりしていますが、このためにどちらにも集中しきれず、これが泣き所となります。

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