徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

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「我が尻をくらえ」と挑発したと伝わる

秀吉は城塞に籠もって出撃してこない家康と信雄にいらだち、わずかな供を連れ、戦場の小高い丘に登りました。

そして敵に背中を見せ、尻を叩いて「我が尻をくらえ!」と叫んで挑発をした、という逸話があります。

真偽は不明ですが、そのようなパフォーマンスをしてまでして、家康を戦場に引きずり出そうとするほどに、この時の秀吉は焦っていたようです。

池田恒興が奇襲作戦を提案する

4月4日になると、いらだちを募らせる秀吉の元を池田恒興が訪れ、状況を変えるための作戦を提案しました。

それは別働隊を家康の領地である三河に進出させ、各地を荒らして回れば、家康は小牧城から撤退せざるを得なくなる、というものでした。

秀吉はいったんはこの策の採用を保留しますが、翌日になると、池田恒興が再びやって来て、森長可とともに羽黒の敗戦の挽回をしたい、と申し出ます。

森長可は池田恒興の娘婿ですので、このために森長可のためになるようにとふるまったのです。

秀吉はこれを受け、ついに池田恒興に許可を与え、大軍を三河に差し向けることにしました。

(これには、秀吉自身が作戦を考えたのを、池田恒興の提案という形にして実行した、という説もあります。)

羽柴秀次を総大将にした別働隊を編制する

しかし、池田恒興や森長可を総大将にして大きな手柄を立てられると、両者への恩賞を厚くせねばならず、秀吉には都合が悪いため、甥の羽柴秀次に8千の兵を与えて総大将とします。

さらに、戦の名人として知られる堀秀政を補佐に付け、総勢で2万の別働隊を編制しました。

これは奇襲部隊と呼ぶには規模が大きすぎ、総大将の羽柴秀次は戦場での経験が乏しい若輩者であるに過ぎず、多くの問題を抱えた作戦であったと言えます。

秀吉にしてはあまりにうかつな判断でしたが、それだけ内心の焦りが大きかったのだと思われます。

別働隊の出陣と、家康の迎撃

別働隊は4月6日の夜に密かに出発しましたが、大軍なので、その行軍は嫌でも人目につきました。

このため、尾張の住民や諜報員からの報告を受け、家康はすぐにこの動きを察知します。

別働隊が三河を荒らし始めれば敗戦が確定しますので、家康は何としてもこれを止めなければなりません。

戦力的に、小牧山城の兵を減らして迎撃に向かわざるを得ませんが、それを秀吉に気づかれると、小牧山城が総攻撃を受けて攻め落とされる可能性があります。

ですので、家康は秀吉に気づかれないように、そっと出陣しなければならない、という課題を抱えました。

結果として、家康はこれを見事にやり遂げており、この点において、秀吉の別働隊と大きな差を付けることになります。

連合軍は密かな出陣に成功し、別働隊に接近する

家康はまず、地元の武将である水野忠重と、腹心の榊原康政の5千の部隊を先発させ、敵情を詳しく探らせました。

そして自らも信雄とともに、夜間に1万の軍勢を率いて小牧山城を出発し、ひとまず近くの小幡城に入城します。

この間、小牧山城の戦力は半分の1万5千になっていましたが、秀吉は陽動のための攻撃はしかけたものの、家康が不在になったことには気がついていませんでした。

別働隊もまた家康が迫っていることに気がつかず、池田恒興の部隊は尾張と三河の国境付近にある重要拠点・岩崎城に猛攻を加えます。

その間、羽柴秀次、堀秀政、森長可の部隊は尾張の長久手あたりで休息を取っており、池田隊が城を攻め落としたら、合流してさらに進軍しようと計画していました。

しかしその時には、既に徳川・織田連合軍がすぐ側にまで接近して来ていました。

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