徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

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蟹江城が滝川一益に攻略される

こうして秀吉が去ったことにより、家康は、一息つける状況になったかと思ったことでしょう。

しかし、海から突如として現れた滝川一益の手によって、6月16日に蟹江城が攻略され、再び重大な危機が訪れます。

滝川一益は、かつては信長の重臣でしたが、柴田勝家に味方し、秀吉と戦って敗れ、その結果、北伊勢の領地を失って浪人になっていました。

しかし、この頃には秀吉に仕えるようになっており、武将としての身分を取り戻すため、この戦役に参戦してきたのです。

蟹江城は尾張と伊勢の国境付近にあり、ここを抑えられると信雄の領地が分断されてしまいます。

これを放置すると、分断された戦力が各個に撃破され、敗北が確定してしまいますので、家康と信雄はただちに出陣し、蟹江城の奪還を図りました。

今度は近くに秀吉がいませんので、より多くの軍勢を動かすことができました。

蟹江城の戦い

家康と信雄は2万の軍勢を率いて蟹江城を包囲し、激しい攻撃を行います。

城が落とされた4日後、6月20日には早くも攻撃が開始され、家康は連日厳しく攻め立て続けました。

そして6月22日に信雄とともに総攻撃を行い、城の三の丸を落とし、滝川一益を追い詰めます。

滝川一益も歴戦の勇将でしたが、戦力は3千程度でしかなく、浪人していたために配下が離散して質が低下しており、このために数日の戦いで敗色が濃くなりました。

家康と信雄が必死に攻撃を続けたこともあり、6月29日には和睦交渉が開始されます。

秀吉の遅すぎる動き

秀吉は中国大返しの事例に見られるように、素早い行軍を得意としており、それを活用して大きな成功を収めた武将です。

しかしこの時は大坂に戻ったばかりで、長宗我部元親を警戒していましたので、滝川一益が作った好機を活かすことができませんでした。

秀吉は蟹江城の奪取から9日後、6月25日なってからようやく近江(滋賀県)に移動しています。

そして7月15日から、蟹江上を起点に総攻撃を行う作戦を立案し、諸将に連絡しました。

しかし、この時にはすでに徳川・織田軍による蟹江城の攻略が進んでおり、とうに機を逸していました。

蟹江城が引き渡される

7月3日には和睦がまとまり、滝川一益が蟹江城を退去し、家康と信雄がこれを接収しています。

この知らせを受けた秀吉は総攻撃を中止し、家康と信雄を撃破する絶好の機会を逃すことになりました。

滝川一益は蟹江城を奪ってから、2週間程度は粘っていましたので、素早く援軍を送れば情勢は変わっていたでしょうが、それが実行できないほどに、この時の秀吉は包囲網に苦しめられ、味方との連携がうまくいっていなかったのだと言えます。

秀吉に味方している諸将は、元は織田家の家臣だったものがほとんどですので、信雄を相手にしては、さほど戦意が上がらなかったのでしょう。

結果的に、この蟹江城の攻防が、秀吉が家康に勝利できる最後の機会となるのですが、これを活かせなかったことにより、以後は尾張方面で大規模な攻勢に出ることがなくなりました。

逆に言えば、家康は敗北の可能性を全力をもって、最速で潰したわけであり、戦術眼の確かさが光る結果となっています。

江戸時代には、この蟹江城の戦いこそが、家康にとって生涯で最も重大な戦いであった、という評価もなされています。

以後は小競り合いが続く

8月には尾張で家康と秀吉が再び対峙しましたが、小競り合いに終始し、本格的な戦闘には発展しませんでした。

家康は秀吉本隊がやってくると防御に徹し、数の有利を活かさせないようにと努め、決して挑発には乗らなかったのです。

これ以後は、徳川軍の別働隊が信濃の木曽谷に攻め込んだものの、撃退されてしまったり、北陸で佐々成政が、秀吉に味方する前田利家の領地に攻め込むも、撃退されたりで、徳川・織田方の勢力も、これといった戦果を上げることはできませんでした。

このため、互いに厭戦感情が高まっていきます。

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