徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

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伊勢の戸木城が落城し、信雄は秀吉と和睦する

9月になると、伊勢の戸木城が攻略され、信雄の領地の一部が秀吉方に占領されています。

これ以前にも、信雄は伊勢の城を失っており、こちらの方面では秀吉がはっきりと有利になっていました。

領地が奪われ、収入が減少して継戦が難しくなってきた信雄は、11月12日に秀吉からの和睦の申し出を受け入れます。

この時に、信雄は伊賀と伊勢半国を秀吉に割譲しており、実質的に秀吉への抵抗を諦めたのだと言えます。

この和睦は家康に無断でなされており、このあたりの対応に、信雄という人物の、義を欠いた性格がよく表れています。

信雄が和睦したことで、家康には戦いを継続する大義名分がなくなり、以後は戦闘が行われなくなりました。

家康も和睦する

秀吉は家康にも使者を送り、和睦しようとします。

秀吉はこの頃、西国への派兵をなるべく早く実施したいと考えていましたので、いつまでも東海で戦いを続ける気はなかったのです。

家康は使者への返礼として、次男の於義丸を秀吉の養子として送り出し、小牧・長久手の戦いは完全に終結しました。

この前年から、家康の領地では自然災害が続いており、農作物の生産量がかなり減少していました。

このために餓死者も出ていたと言われるほどで、家康もまた、いつまでも戦いを続けられない弱点を抱えていたのです。

その影響もあって、家康は戦いの終結に同意しています。

秀吉が家康に臣従を働きかける

その後、秀吉は紀州の雑賀衆や根来衆を攻めて降伏させ、長宗我部元親を打倒して四国の制覇にも成功し、家康に味方をしていた西側の勢力は壊滅しました。

こうして、もはや秀吉と戦うべくもない状況ができあがります。

秀吉は海外進出を実施するため、東国の平定を急いでおり、何度も使者を送って家康を臣従させようとしますが、家康はなかなかこれに応じませんでした。

一度は戦って大きな痛手を与えただけに、秀吉が自分を快く受け入れるかどうかを不安視していたことと、上洛すれば殺されてしまうだろうと、家臣たちが強く反対していたことが、家康の方針に影響しています。

秀吉は妹と母を人質に送り、家康を臣従させる

秀吉は粘り強く交渉を続け、ついには自分の妹を家康と結婚させ、母親を人質として家康の元に送るという、奇策を用いました。

この時には秀吉は既に関白になっており、朝廷から豊臣姓も賜って、天下人としての地位を確立しつつありましたが、そこまで家康に対して下手に出てきたのです。

これを受け入れなければもはや戦争になるのは確実で、このために家康はやむなく大坂まで出向き、秀吉への臣従を約束しました。

こうしてついに秀吉に屈したことになりますが、この時に容易に臣従しなかったことが、家康の価値をさらに高める結果を生み出しています。

政権の次席としての地位を得る

その後、秀吉は国内の安定には家康の協力が欠かせないと考え、北条征伐の後に、関東に250万石の大領と、政権の次席の地位を与え、東国の統括を任せています。

小牧・長久手の戦いで見せた家康の軍事能力と、外交能力の高さを買ってのことだったのでしょうが、長い目で見れば、豊臣政権を不安定にする要因を抱え込んだことにもなりました。

秀吉が死去した後、家康は豊臣家から天下の支配権を奪い取りますが、家康と互角に戦える秀吉が去れば、唯一の最強武将として世に残った家康が天下を制するのは、自然な成り行きであったと言えます。

その実力を広く世に示し、家康の声望を高めた小牧・長久手の戦いは、家康が天下人になる上で、最も重要な戦いだったとみなすことができます。

天下分け目と言われた「関ヶ原の戦い」は、戦いそのものとしては見るべきところは少なく、敵対したのが毛利輝元や石田三成といった、秀吉に比べればはるかに格落ちする相手でしたので、家康が勝利するのは当然のことでした。

家康はどうして秀吉と互角に渡り合えたのか?

これまで見てきた通り、家康は3倍以上の戦力を持つ秀吉に対し、互角に渡り合った結果を残しています。

これには、家康の側は家臣団が結束しており、家康の指示通りに素早く全軍が動ける体制が構築されていましたが、秀吉の側はそうではなかったことが影響しています。

秀吉はこの頃、畿内や北陸を制していたとは言え、信長の死後に躍進してからまだ2年もたっておらず、政権の基盤は確立されていませんでした。

傘下の大名たちは、信長の元で同僚だった者がほとんどで、このために上下関係が確立されておらず、動員を命じても、素早く動いてくれる相手ばかりではなかったのです。

この影響で、命令伝達の速度や達成度において差がつき、家康はそれを活かして局地戦で勝利を重ねました。

また、根来衆が摂津の攻略に積極的で、長宗我部元親も讃岐を制しており、このために秀吉は西から圧迫され、東の尾張・美濃の戦線に集中できなかったことも、家康に有利な状況をもたらしました。

こうして家康は軍事と外交をうまく機能させることにより、戦力差を補って、秀吉に敗北せずにすんだのです。

家康はこの戦いで、領地などの実質的な利益は得られませんでしたが、高い評価と名声という、無形の利益を手に入れ、それが将来の天下人の地位に結びついたのだと言えます。