両軍の実態
このように、すでに西軍の主力部隊のいくつかが家康と通じてしまっており、戦う前からすでに、東軍に圧倒的に有利な状況が作られていました。
関ヶ原に集結した西軍が約10万で、東軍が7万5000程度でしたが、西軍のうちの3万5000が寝返り、あるいは傍観を決め込んでおり、実際には東軍が有利な情勢にありました。
それ以外にも小大名のいくつかが寝返っていたり、毛利軍に進路を塞がれる形で戦場に参加できなかった大名もいたりで、西軍の実戦力はおおよそ全体の三分の一程度、という状態でした。
つまり、実際には家康が倍以上の戦力を持っていたことになります。
三成はこのことに気づいておらず、数で勝っていたことから勝利の可能性は高いと見ていました。
戦場の配置
以下の地図は関が原の合戦における諸将の配置図です。
赤が東軍で、青が西軍です。
西軍が東軍を包囲するように陣をしいており、もしも全ての軍が正面切って戦っていたならば、西軍が勝利していたことでしょう。
しかし既に述べた通り、西軍の実態は虚ろなもので、一部の軍勢にしか戦意はありませんでした。
配置図を見ると、南の松尾山に小早川秀秋がおり、東南の南宮山に毛利の軍勢が配置されています。
三成の構想は、自軍と諸隊が正面を引き受けているうちに、小早川・毛利勢が東軍の横合いと背後から攻撃すれば勝利できる、というものだったのでしょう。
作戦そのものは間違っていないのですが、肝心の、諸将の気持ちをひとつにまとめ、戦いに赴かせる力が三成にはありませんでした。
このあたり、絶大な権力を持つ秀吉の下で長く官僚として働いていたため、どうすれば自分の思惑のために人が動いてくれるのかを考える力が、養われていなかったのかもしれません。
秀吉が存命の時は、人が自分の命令を聞いてくれるのは当たり前のことだったでしょうから。
たとえば、西軍に参加している島津義弘との間で三成は諍いを起こしており、関ヶ原の戦いの最中に攻撃要請を無視される、という仕返しを受けてしまっています。
三成の要請に物心ともに正面から応じてくれたのは、友人である大谷吉継くらいのものでした。
こうして三成は、そうと知らぬまま、乏しい軍勢を率いて家康と決戦を行うことになります。
戦いの始まり
戦いは1600年9月15日の早朝に開始されました。
この日は深い霧が出ており、互いの位置が正確にわからぬまま、索敵中の遭遇戦によって、その火ぶたが切って落とされました。
東軍の先鋒を務めるのは6000の兵を率いる福島正則で、1万7000もの兵を率いる宇喜多秀家隊に攻撃をしかけます。
三成以外には数少ない戦意の保持者であった宇喜多秀家は、この攻撃に全力で応じ、一進一退の攻防を繰り広げます。
秀家は幼い頃から秀吉の手元で大事に養育されており、豊臣家への高い忠誠心を持っていました。
このため、三成の思惑とは関係なしに力を尽くして戦い続けました。
この秀家の存在がなければ、関ヶ原の戦いは「決戦」と呼ばれるだけの体裁を持つことはなかったでしょう。
一方で三成は6000の兵を率い、黒田・細川といった大名の軍勢と戦います。
黒田・細川隊は合わせて1万ほどで、石田隊は数では劣勢でしたが、島左近という高名な武将が前線を支え、こちらでも互角の戦いが展開されます。
それ以外には、大谷吉継が藤堂高虎の攻撃を防ぐなどしていましたが、西軍で戦意があったのは、他には小西行長隊くらいのものであり、全体のうちの三分の一程度の戦力しか戦っていませんでした。
小早川秀秋も吉川広家も戦況を傍観しており、軍を動かしません。
やがてそうこうしているうちに、戦況は西軍の側にやや有利に傾いていきます。
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