戦後処理
【戦国の覇者となった徳川家康の肖像】
三成は戦場から逃走して潜伏するものの、やがて近江で捕縛されました。
そして大津に送られ、ここで東軍の諸将と顔を合わせます。
小早川秀秋と会った時には、当然のことながら、激しい罵声を浴びせたようです。
その後京都・六条河原に送られ、そこで小西行長らと共に処刑されました。
こうして三成の家康打倒の計画は失敗に終わります。
小早川秀秋は戦後に家康から大きく領地を加増されますが、わずか2年後に病死しています。
もともとアルコール中毒の気があり、それで体を損なったのが原因のようです。
後継者がいなかったため、小早川家は改易され、断絶となってしまいました。
家康からすれば、秀秋はもともと豊臣家とのつながりが深い人物ですし、小早川家は毛利家の分家ですので、これ幸い、という気分だったでしょう。
毛利家のその後
毛利家は敗戦前に家康に通じていたものの、戦役中に各地で東軍に攻撃をしかけていたことなどをとがめられ、120万石から36万石にまで減封されてしまいます。
それも、その領地は徳川家への忠誠の厚い吉川広家に与える、という話でしたが、広家が嘆願をして毛利家に与えられる形を取ることで決着しました。
家康からすれば、勝利の後で自分に対抗できる可能性のある大大名の領地は削るか潰すつもりで、はじめから毛利家の勢力を温存する気などなかったでしょう。
そういった家康の意図を見抜けなかった広家は、自らの判断で主家の勢力を大きく減少させてしまったことになります。
広家に領地を与えると言ったのは、毛利家と吉川家を分断して、その力を弱らせる意図もあったでしょう。
事実、この後吉川家は毛利家から冷遇され続けることになります。
西軍の減封と改易
上杉家も同様の措置を受け、領地の大半を没収され、120万石から30万石にまで領地が減少します。
宇喜多家は改易され、秀家は八丈島に流刑になり、そこで一生を終えました。
こうして徳川家に逆らうものはみな処罰され、勢力を弱められ、江戸幕府を開く下地が整いました。
豊臣家は蔵入地という直轄領の大半を家康に奪われ、220万石から65万石にまで領地を削られています。
削った分の領地は家康のものとなり、徳川家は400万石もの領地を持つようになります。
これらの領地には金銀の産地や貿易港などが含まれており、徳川家の財力は飛躍的に向上します。
こうして名実ともに並ぶものがいなくなった家康は、1603年に征夷大将軍に任命され、豊臣に代わる徳川政権の樹立に成功しました。
結局のところ、三成は家康の勢力の伸張に、大きく手を貸してしまったことになります。
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