敦賀城主となる
1589年になるとそれまでの功績を認められ、秀吉から越前(福井)の敦賀2万石を領地として与えられます。
敦賀は北国の交易や物流の中心地であり、秀吉から重要な拠点を任されたことになります。
吉継はいくつかの廻船問屋(海の流通業者)に税の免除などの特権を与えて支配体制に取り込み、商業港としての敦賀の機能を整えていきます。
高嶋屋一族もこの時に特権を得ており、後の隆盛の基礎を築いていったようです。
その他にも、地場産業である鍛冶を営む刀禰氏の税を免除するなどして、その育成にも力を入れました。
このあたりは堺での経験が生きていたのでしょう。
また、多くの家臣を養う身分にもなりましたが、これを常に大事に扱って忠誠を得ることにも成功しており、その統制もうまくいっていたようです。
こうした働きが認められ、翌年にはさらに領地を加増され、敦賀に5万石を領有することになります。
病を得る
このように、吉継は順調に秀吉子飼いの家臣として出世を遂げていきましたが、1594年頃に病を得てしまい、以後は療養生活を送ることになります。
この病はハンセン病で、顔の皮膚などが崩れてしまったという話が有名になっているのですが、当時の資料にはそういった記録は見つからないようです。
視力がかなり弱っていたのは確かなようで、このために略式の印判を押して書状を送ることを、謝罪した記録が残っています。
この病気は梅毒だったという説もあり、同僚の加藤清正が同じ病だったことから、こちらの説にも信憑性があるかもしれません。
ともあれ、こうして吉継は秀吉政権の中枢からしばらくの間、離れることになります。
このため、他の同僚たちは20万石前後の領地を与えられていましたが、吉継は5万石のままで据え置かれました。
秀吉からの評価
秀吉は吉継の才能を高く評価しており、吉継が重い病を得ても引退はさせませんでした。
「機会があれば吉継に100万の軍の指揮を取らせてみたいものだ」と述べたとも伝わっています。
これは病によって多くは働けなくなった吉継に対する、いたわりの言葉でもあったのかもしれません。
秀吉は亡くなる前年にも徳川家康などを伴って吉継の屋敷を訪れるなどしており、最後までその寵愛が薄れることはなかったようです。
秀吉の死と、家康への接近
秀吉が1598年に死去すると、その家臣であった諸大名同士の争いが激しくなります。
1599年には、ともに五大老の地位にあった前田利家と徳川家康との間で争いが起き、前田派の武将たちが家康を襲撃するのではないかという噂が流れます。
家康の実力を高く評価し、次の天下人になると見ていた吉継は、家康の元に参じ、その警護にあたります。
この頃には病状が好転しており、こういった活動ができるまでになっていました。
この騒動の後、家康と和解した前田利家は、間もなく病死します。
三成が襲撃され、引退に追い込まれる
前田利家が死去すると、彼に味方して家康と対立していた石田三成が、加藤清正や黒田長政など、七人の武将に襲撃される事件が起こります。
加藤清正らは、朝鮮への討ち入りの際に現地におもむいて戦っていました。
その時の働きぶりを監督官であった三成とその部下に酷評され、秀吉に処罰されたという経緯がありました。
彼らはそれを恨みに思っており、秀吉が亡くなったこの機会に晴らそうとしたのです。
この騒動は家康の仲介によって収拾されますが、三成は騒動が起きた責任を問われ、隠居させられることになりました。
こうして前田利家と石田三成というふたりの強敵がいなくなり、家康の台頭がさらに進んでいきます。
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