劉璋は後漢末期において、益州に割拠していた人物です。
とは言っても、父・劉焉の後を継いで以来、次々と反乱が発生しており、その統治は不安定なものでした。
これは劉璋が優柔不断で、部下を統率する能力が欠けていたことによります。
やがて劉璋は益州を守るために劉備を招きますが、裏切られ、領地を全て奪われてしまいました。
それをきっかけに劉備は勢力を拡大し、三国時代が現出することになります。
この文章では、そんな劉璋の生涯を書いてみます。
【劉璋の肖像画】
劉焉の四男として生まれる
劉璋は字を季玉といいます。
益州で独立割拠した、劉焉の四男として誕生しました。
生年は不明ですが、若い頃から皇帝の側近くに仕えています。
これは劉璋の家系が、魯の恭王・劉余の血を引いており、王族の一員だったためでした。
兄たちと共に献帝に仕える
劉璋は都において、奉車都尉という地位にありました。
これは皇帝の御車を管理し、外出に随行する役目です。
劉璋はそのような立場で、長安の献帝に仕えています。
また、長兄の劉範は武官として、次兄の劉誕は文官として、それぞれ朝廷に出仕していました。
しかし当時の献帝は、董卓とその部下たちに擁立された存在で、立場は不安定なものでした。
このため、側近である劉璋たちの身分もまた、安泰ではなかったのです。
父の元を訪れ、そのまま益州に留まる
父の劉焉は、後漢の実力が衰えたのを見ると、地方に出て独立割拠し、いずれは自分が皇帝にならんとする野心を抱くようになりました。
そして益州を支配下に収めると、朝廷との連絡をおろそかにし、不遜な態度を見せるようになります。
これを憂いた献帝は、劉焉が病にかかったと知ると、劉璋を益州に派遣しました。
そして劉璋に見舞いがてら、劉焉を諫めさせようとします。
しかし劉焉は劉璋がやって来ると、そのまま益州に留まらせ、都には戻らせませんでした。
劉焉はこのころ、朝廷への反乱に加担するつもりになっていましたので、戦いの舞台となる都から、劉璋を切り離しておきたかったのでしょう。
劉璋は温厚で、荒事には向かない性格でした。
反乱に失敗し、兄たちが処刑される
劉焉は涼州に勢力を持つ馬騰と手を組み、益州の兵を動かし、長安を襲撃する計画に参加しました。
そして長男の劉範に益州の兵を預け、馬騰とともに進軍させます。
しかしこの計画は、朝廷を支配する李確に察知されており、失敗に終わりました。
劉範は逃亡したものの捕縛され、弟の劉誕とともに処刑されます。
この結果、劉焉は二人の息子を、劉璋は二人の兄を失うことになったのでした。
龐羲が一族を連れ帰るも、劉焉は病死する
こうして劉焉の一族は危機を迎えましたが、かねてより交際のあった龐羲と言う人物が、劉璋らの子どもたちを、益州まで連れてきてくれました。
このために劉璋は龐羲に大変に感謝し、やがて重用するようになります。
一方で父の劉焉は、息子二人を失い、災害によって居城が焼失したことで、ひどく気落ちしました。
それが原因で背中に悪性の腫れ物ができ、間もなく死去してしまいます。
このようにして、三男の劉瑁と、四男の劉璋が後に残されることになりました。
劉焉の後継者となる
この時に、劉焉の重臣であった趙韙は、劉璋の方が温厚なため、扱いやすいだろうと判断します。
そして、そのような劉璋の性質を利用して、自分の権益を拡大しようと企んだのでした。
こういった事情によって、趙韙は他の重臣たちと共同し、劉璋を益州刺史(長官)に推薦します。
反逆を抑える
劉璋が益州の統治を始めたころ、朝廷は扈瑁という男を益州刺史に任命していました。
朝廷は当初、劉璋に益州を預けるつもりはなかったのです。
劉璋は反乱に加担した劉焉の子でしたので、もっともな措置だったと言えるでしょう。
このため、扈瑁が益州北部の漢中に入ると、変事が発生します。
益州に隣接する荊州は、親族の劉表が支配していました。
彼は益州にも勢力を伸ばそうと思い、沈弥や甘寧といった益州の将軍たちを勧誘し、扈瑁に寝返らせました。
すると彼らはこぞって反乱を起こし、劉璋に攻撃をしかけてきます。
この時、劉璋と趙韙は協力して反乱軍を撃退し、荊州に追い出しました。
そして劉璋は趙韙を東に派遣し、劉表に反撃をさせ、州の境界に駐屯させます。
こうして劉璋は益州を何とか保ったものの、その統治は当初から、波乱含みなものとなりました。
益州牧となる
劉璋が反乱を抑えると、朝廷は態度を変え、劉璋を益州牧(長官)に、趙韙を征東中郎将(上級指揮官)に任命し、劉表を討つように命じます。
こうして劉璋は末弟でありながら、劉焉の後継者の地位を、正式に獲得したのでした。
兄の劉瑁がこれをどう思ったのかは、史書には書かれていません。
やがて精神を病んで亡くなっていますので、弟に地位を取られたことに、傷ついたのかもしれません。
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