劉璋 劉備に益州を奪われた、善良なれど無能な人物の生涯

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曹操との関係を絶ち、劉備に接近する

張松は劉璋の元に帰還すると、自分を冷遇した曹操を、悪し様に罵りました。

そして曹操との絶交を劉璋に勧めつつ、「劉備は殿の親類ですから、彼と手を結んだ方がよいでしょう」と進言します。

劉璋は張松の言うことはもっともだと思い、曹操との関係を絶ち、劉備を援助することにしました。

劉備は赤壁で勝利した後、荊州南部を支配し、確固たる根拠地を確保しています。

劉璋は法正ほうせいを派遣してよしみを通じると、数千の兵士を送り、劉備を助けました。

こうして張松の働きかけによって、益州勢力は曹操から離れ、劉備に接近していったのでした。

曹操の失敗

この時の曹操について、史家の習鑿歯しゅうさくしは次のように評しています。

「昔、せいかん公がひとたび自分の功績を誇ると、九ヶ国で反乱が起きた。

曹操はわずかな間、慢心に陥ったことで、天下は三つに分かれた。

どちらの場合も数十年におよぶ努力を、一瞬で捨て去ることになってしまった。なんと残念なことであろう。

だからこそ君子は、日が暮れるまで謙虚さを保つよう努力し、人にへりくだることを考える。

そして手柄があっても謙譲の態度を維持し、地位が高くても低姿勢をとるのである」

もしもここで曹操が張松に丁重な態度を取っていれば、益州が劉備になびくことはなく、三国時代は訪れなかったかもしれません。

この曹操と張松の交渉は、赤壁の戦いと合わせて、歴史の大きな分岐点だったのだと言えます。

張松と法正の裏切り

こうして張松と法正は劉備に接近しましたが、彼らは内心では、劉璋は益州の支配者にふさわしくないと考えていました。

このため、劉備に「益州を劉璋から奪い、支配者になるべきです」と勧めています。

劉備は親族から土地を奪うことをよしとしませんでしたが、曹操に対抗するためには益州が必要だと説得され、ついにこれに同意しました。

実際のところ、この時に劉備が益州を奪取しなければ、いずれ曹操に取られていたでしょう。

これを受け、張松と法正は、劉備が益州に招かれるよう、工作を始めます。

相手はお人好しの劉璋でしたので、さほど難しいことではありませんでした。

劉璋は温厚で善良でしたが、物事の良し悪しを判断する能力が乏しく、だまされやすい性格でした。

このため、乱世において独立割拠するには、まったく不向きな人物だったのだと言えます。

家臣の反対を押し切って劉備を迎える

しばらくすると、張松は再び劉璋に進言をしました。

「いま、龐羲や李異りいなど、益州の武将たちは、手柄を頼みに思い上がり、外部の勢力と手を組もうとしています。

もしも劉備を味方につけなければ、他勢力の侵略を招き、民衆は反乱を起こすでしょう。これは敗北につながる道だと言えます」

劉璋はこの意見に賛同し、法正を派遣して劉備を益州に招こうとしました。

すると主簿(事務長)の黄権こうけんが利害を述べて反対し、王累おうるいは州門に体を逆さづりにして、劉璋を諫めます。

彼らは張松や法正の魂胆を見抜いており、劉璋の身を案じた忠実な人々だったのだと言えます。

しかし劉璋はかん言に耳を貸さず、劉備を丁重にもてなすようにと、街道ぞいの街々に命令を下しました。

このため、劉備はまるで自分の国に帰還するかのように、軽々と州境を越えています。

こうして劉璋は、自ら危機を招き入れることになったのでした。

劉備を歓待する

劉備は益州に入ると、やがてに到着しました。

すると劉璋は自ら三万の軍勢を率い、豪華な車をきらめかせて劉備を出迎え、会合します。

劉璋は劉備の部下たちをかわるがわる招いて歓待し、宴会は百日にも及びました。

このあたりの様子から、益州は裕福で、劉璋は多くの財産を持っていたことがうかがえます。

劉璋は劉備に対し、米二十万石・騎馬千匹・車千乗・絹織物といった大量の物資を援助しました。

そして敵対する張魯を討つように依頼してから、成都に引きあげています。

この物資の豊富さと、劉璋の御しやすさをみて、劉備は益州を奪取しようと、いよいよ決意したと思われます。

それまで劉備は、人から地位を譲られることがあっても、正当な支配権を持つ他者の領土を、奪ったことはありませんでした。

ですので、この時の劉備の決断は、彼の人生にとっても、大きな転換点だったのだと言えます。

劉備が劉璋を攻撃する

劉備が益州にやってきたのは、211年のことでした。

その翌年になると、劉備は求めた援助を受けられなかったことを理由に、劉璋に対する攻撃を開始します。

劉璋はまたも裏切られたのか、と呆然としたことでしょう。

劉備は軍師の龐統ほうとうらく城で失ったものの、全体としては順調に攻略を進め、214年には劉璋を成都に追いつめました。

この時、城中にはまだ三万の精兵がおり、物資は一年分残っていましたので、官民はともに、命がけで戦う覚悟を持っていました。

この様子から、劉璋は益州全体はうまく統治できていませんでしたが、成都の周辺だけは、掌握できていたことがわかります。

しかし、やがて劉備の陣営に、勇猛で知られる馬超ばちょうが加わったことを知ると、劉璋はこれを怖れ、降伏を決意しました。

「われわれ親子は、二十年に渡って益州を統治してきたが、何ら恩徳を施すことはなかった。

人々が三年に渡って戦いに明け暮れ、草野に屍をさらすことになったのは、私のせいである。どうして平気でいられようか」

といって、劉璋は劉備に降伏を申し入れました。

こうして劉焉・劉璋親子の益州支配は終わりを告げることになります。

この時、劉璋の家臣の中で、涙を流さない者は一人もいなかった、と言われています。

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