車騎将軍とは 三国志では張飛や曹仁が就任

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車騎しゃき将軍は中国の官職です。

車騎の「車」は「戦車」を意味し、「騎」は「騎馬隊」を意味します。

つまり車騎将軍は「戦車と騎馬隊を率いる将軍」を意味しています。

前漢では

前漢では、初代皇帝・劉邦に仕えた灌嬰かんえいが就任しています。

灌嬰は絹商人の出身だったのですが、騎兵の指揮が得意で、別働隊を率いて各地で活躍しました。

垓下がいかの戦いで敗北し、逃走した項羽を追撃して自害に追い込んだのも、灌嬰の部隊でした。

武将としての特徴からして、車騎将軍の地位にふさわしい人物だったのだと言えます。

その後、車騎将軍は皇帝の側近や外戚がいせき(皇帝の妃の親類)が就任する地位になっています。

他に代表的なところでは、武帝の時代に匈奴きょうど討伐で活躍した衛青えいせいが車騎将軍となり、その後で大将軍に昇進しました。

後漢では

後漢では格式が高く、大将軍と驃騎ひょうき将軍に次ぐ第三位でした。

下には衛将軍がいます。

常設の官職ではなく、反乱が発生した際に任命され、討伐にあたりました。

このあたりは驃騎将軍と扱いが似ています。

幕府を開く権限を持っており、独自に長史(副官)や司馬(監察官)などの幕僚を任命することができました。

現代で言えば元帥にあたる、軍の最上位の立場でした。

三国志では

221年に劉備が皇帝となり、蜀漢が建国されると、張飛が車騎将軍に就任しています。

【蜀の初代車騎将軍となった張飛 司隷校尉にも任命されていた】

この時に馬超が驃騎将軍になっていますので、張飛は蜀軍において、ナンバーツーの位置づけだったのだと思われます。

張飛は1万の兵を率いて荊州遠征に参加することになっていましたが、翌年に部下の手によって殺害されてしまいました。

このため、車騎将軍だったのはわずかな期間だったことになります。

以後は呉懿ごい鄧芝とうし、夏候覇(夏侯淵の子)といった重臣たちが就任しています。

そして259年には右車騎将軍と左車騎将軍の地位が設けられ、功臣である廖化りょうかと張翼が就任しました。

魏では曹仁や張郃ちょうこうなどが就任していましたが、司馬師が政権を握っていた時代に、蜀と同じく左右に分けられています。

呉では朱然しゅぜんが就任しました。

いずれも、各勢力の名のある武将たちがつく地位だったのだと言えます。

その後

隋の時代には、驃騎府・車騎府が設けられ、車騎将軍は驃騎将軍とともに国軍を指揮しました。

このようにして車騎将軍は格が上がったのですが、唐の時代になると折衝府に統合されたため、車騎将軍の地位はなくなっています。