長引く交渉
家康は島津氏を許すにあたり、義弘が上洛して直接謝罪をするようにと迫りましたが、島津側は「まずは本領安堵の約束をしてくれなければ応じられない」として突っぱねており、この交渉にはかなりの時間を要しました。
一方でこの間に、島津氏は軍備の増強を続け、徳川氏が明に送っていた交易船団を密かに襲撃して、これを沈めるなどしています。
こうして軍事的な圧迫をかけることにより、島津は容易に徳川には屈しない、という姿勢を見せました。
まだ関ヶ原の戦いが終わったばかりで政情が不安定であったため、家康も島津への大規模な討伐軍を起こすことにはためらいがあり、強硬な措置は取りませんでした。
このあたりのしたたかな動きを見るに、島津氏の存続には義弘が欠かせない、と言った豊久の考えは正しかったのでしょう。
交渉の決着
島津側は、そもそも義弘が西軍に味方することになったのは、伏見城への入城を鳥居元忠が断ったためであり、積極的に西軍に加わったわけではない、といういきさつを主張しました。
これには徳川方の落ち度もあったため、2年にも渡る交渉の末についに家康が折れ、島津氏の薩摩・大隅・日向の本領安堵を認めました。
「西軍への参加は義弘の個人行動であり、島津氏の当主である義久は徳川とは敵対していなかったから処分しない」というのが家康が述べた理由でした。
結果としてみれば、参戦した部隊が少なかったことが功を奏したとも言えます。
参戦した義弘も、義久と家康は仲がよいので、その弟を処分することもしない、という理由で許されました。
これを受けて島津氏の後継者である忠恒(ただつね。義弘の嫡子)が上洛して家康に謝罪と本領安堵の礼を述べ、徳川氏に従うことを約束しました。
こうして島津氏は敗軍となったにもかかわらず、一切の領地の削減を受けずにすみ、その勢力を保つことに成功しています。
このことが、後に幕末の情勢にも大きな影響をおよぼすことになります。
家康は島津氏の領地の削減ができなかったことを、ずっと気にかけていたようです。
その死後に島津氏によって徳川氏の天下がゆるがされるのではないかと警戒し、自分の遺体を薩摩に向けて葬るようにと遺言した、と言われています。
後に徳川氏は将軍の正室を何度か島津氏の姫から迎えて縁戚関係を構築しており、江戸時代を通して島津氏への懐柔政策を継続しています。
豊久の死の状況
豊久は関ヶ原付近の大垣で戦死したとされていますが、異説もあります。
豊久は関ヶ原での戦いの後、大垣の上石津(かみいしづ)という村落まで落ち延びたのですが、負傷した豊久を看病する村人たちに迷惑がかかるのに気がとがめ、やがて自刃した、というものです。
このために大垣には豊久についての石碑や墓が残されています。
義弘は豊久の生死を確認できなかったため、撤退戦に参加して生き延びた押川公近(きみちか)という武将を巡礼の名目で上方に派遣しました。
この時に大垣あたりでの死を確認したようで、義弘にも伝わったものと思われます。
豊久の家のその後
豊久には子どもがいなかったため、佐土原はいったん改易されますが、後に一族の島津以久(もちひさ)が入り、佐土原3万石の藩主になりました。
豊久の家督は忠恒の子・久雄が継承しており、永吉島津家として存続しています。
この前にも一度断絶しているのですが、当主の子を養子にしてまで島津氏が豊久の家の存続にこだわったのは、関ヶ原での決死の働きが影響していると思われます。
実は西軍に積極的に参加していたという説もあり
以下は補足になりますが、実は義弘と三成は仲が良く、このために義弘は西軍に積極的に加担していた、という説もあります。
三成はかつて島津氏が豊臣秀吉の討伐を受けて敗れ、降伏する際に仲介役を務めており、その際に処置が穏便なものとなるように取り計らったという過去がありました。
それが契機となって、義弘と三成は良好な関係を持つようになったと言われています。
このため、三成との不仲説は、島津氏が徳川氏に従属するようになったため、三成と友好的であったという過去は都合が悪くなり、これを糊塗するために創作された可能性があるのです。
これが事実だとすると、関ヶ原において三成が自軍の隣に島津軍を配置していたことに説明がつきますし、これは三成からの義弘への信頼の表れであったとも見ることができるでしょう。
どちらにしても、「島津の退き口」の価値が変わるわけではありませんが、そのような仮説も十分に成立しうる、という話を添えてこの文章を終わります。
【関ヶ原で敗れた石田三成の肖像画。義弘とは良好な関係であったという説もある】