曹仁 周瑜や馬超、関羽にも勝利した、知勇兼備の名将

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曹仁そうじんは曹操に仕えて活躍した武将です。

騎兵の指揮が得意で、別動隊を率いて各地で戦功を立てました。

そして周瑜に重傷を負わせ、馬超を打ち破り、関羽を撃退するという、優れた実績をいくつもあげています。

曹操軍の中では最強格の武将であり、最終的には大将軍や大司馬といった、魏軍の最高位にまで登りつめました。

この文章では、そんな曹仁の生涯を書いています。

沛国譙県に生まれる

曹仁は字を子孝しこうといい、沛国譙県の出身です。

曹操のいとこで、168年に生まれました。

曹操が155年の生まれですので、13才年下になります。

曹仁は若いときから弓術と馬術を好んでおり、武芸を得意としていました。

これが戦乱の時代になると、大いに役立つことになります。

初めは独立して動き、やがて曹操に従う

189年に董卓が台頭して世が乱れると、各地で群雄が一斉に旗揚げをしました。

曹仁はこの時まだ21才でしたが、この流れにのって彼もまた挙兵し、千人を率いて淮水わいすい泗水しすいのあたりで暴れ回ります。

夏侯惇や夏侯淵など、他の曹操の重臣たちとは違い、曹仁は初めは独立して活動していたのでした。

やがて曹操が勢力を増すとその傘下に入り、別部司馬べつぶしば(別動隊の隊長)に任命されます。

以後、曹仁は曹操の命に従って各地を転戦し、武功を立てていきます。

各地で手柄を立てる

まず曹仁は、曹操が袁術と戦った際に、その軍兵を数多く討ち取り、捕虜も獲得しました。

そして徐州に攻めこんだ際には、騎兵を率いて先鋒を務め、陶謙の武将である呂由りょゆうを打ち破ります。

ついで決戦となったほう城の戦いでも活躍し、陶謙軍に大きな打撃を与えました。

さらに呂布と戦った時には、別働隊を率いて敵将の劉何りゅうかを生け捕りにするなど、どの戦いでも安定して功績を立て、曹操軍の中でも目立つ存在となっていきます。

やがて広陽太守に任命されましたが、曹操は彼の武勇と知略を高く評価し、任地に赴任させず、中央に留めて騎兵隊を率いさせました。

敗勢を支えて張繡を撃退する

曹仁は、曹操が張繡ちょうしゅうを攻撃した際に従軍すると、この時も別働隊を率いて諸県を攻略し、三千の捕虜を得ました。

しかし曹操軍は帰還する途中、張繡の追撃を受けて大敗し、軍の指揮が著しく低下します。

張繡の奇襲によって、曹操の長男の曹こうや、典韋が戦死するなどしており、このためにみな意気消沈していたのでした。

この時に曹仁は将兵を叱咤激励し、果敢に張繡軍に逆襲をしかけて奮戦しました。

この曹仁の働きによって張繡を撃退することができ、危機を救われた曹操はその勇気に感服します。

このように、曹仁は逆境にも強い武将だったのでした。

劉備を撃退する

その後、曹操は袁紹と敵対し、官渡で長期間に渡って対峙します。

すると袁紹は汝南じょなんに劉備を派遣し、各地を攻略させて、曹操を北と南から挟み撃ちにしようとしました。

劉備が隱彊いんきょう県を陥落させると、他の多くの県もこれに呼応し、許都(曹操の本拠)以南の地域が動揺します。

曹操がこの事態を憂いていると、曹仁が次のように進言をしました。

「我が軍は北の袁紹の本隊に対応しなくてはならないので、南方の者たちは、我々が救援しに来ないだろうと判断しています。

そこに劉備が強力な軍勢を引きつれてやってきたのですから、彼らが寝返るのも当然です。

しかし、劉備はまだ袁紹の兵を率いて日が浅いため、その統率は行き届いていません。

ですから今のうちにこれを攻撃すれば、打ち破ることができます」

曹操は曹仁の意見に賛同し、対応を任せました。

すると曹仁は騎兵を率いて出撃し、言葉通りに劉備軍を撃破し、敗走させています。

そして曹仁は南方の諸県を取り戻し、後顧の憂いを取り除きました。

袁紹軍に打撃を与える

さらに、袁紹が西方の交通を荒らすために韓荀かんじゅんを派遣すると、こちらも曹仁が撃退します。

すると袁紹はこれにこりて、別働隊の派遣を行わなくなりました。

こうして曹仁は、曹操が官渡の戦いに集中できる環境を作り上げたのです。

別動隊の隊長として、理想的な働きだったと言えるでしょう。

曹仁はその後、袁紹軍の輸送隊を襲撃し、食糧を焼き払う功績も立てています。

曹操の指揮の誤りを指摘する

やがて曹操は官渡の戦いに勝利し、袁紹の一族を討って河北を平定しました。

すると、ついでへい州を平定するため、刺史(長官)の高幹が立て籠もる壺関こかんを包囲します。

曹操がこの時「城が陥落したら、全員生き埋めにせよ」と命令したため、城兵の抵抗が激しくなり、数ヶ月たっても攻め落とせませんでした。

このため、曹仁はまたも曹操に進言をしました。

「城を包囲した場合には、一方に逃げ道を用意しておくべきだと申します。

彼らに生存の道を開いてやり、逃走や降伏を促すためです。

しかし、いま公は皆殺しを布告されましたので、城内の将兵は必死に抵抗するようになっています。

そのうえ、城塞は堅固で食糧も豊富ですので、攻撃すると我が軍の被害が大きくなります。

このために攻略が長引き、被害が拡大してしまいますが、これは良策だとは言えません」

曹仁が懇切に述べると、曹操はこの意見に従い、「降伏を認める」と城内に通達します。

すると壺関の将兵は降伏を申し入れて来たので、長く続いた攻城戦を終わらせることができました。

このように、曹仁は曹操に的確な助言をできるほど、優れた知謀も備えていました。

曹操は一連の曹仁の働きを高く評価し、この戦いが終わると都亭候の爵位を与えています。

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