曹仁 周瑜や馬超、関羽にも勝利した、知勇兼備の名将

スポンサーリンク

再び荊州に戻る

その後で曹仁は、211年に西方で起きた馬超の反乱に対応するために出陣し、渭水いすいの南で馬超を撃破しています。

さらに田銀らが河間郡で反乱を起こすと、行驍騎ぎょうき将軍に任命され、七軍の総司令官としてこれを討伐しました。

こうして各地で戦功を立てた曹仁は、219年に再び行征南将軍・仮節に任命され、荊州に戻ってはん城に赴任します。

すると間もなく、えんの守備についていた曹操配下の候音が関羽に内通し、反乱を起こしました。

そして近隣の県を荒らして数千人の官民を生け捕りにします。

関羽はこの状況を活用するために、宛に援軍を送り、曹操の領内に楔を打ち込もうとします。

曹仁はこうして発生した重大な危機に対応するために、すぐに龐徳ほうとくらを率いて出撃し、猛攻をしかけて候音を討ち取りました。

この功績によって、曹仁は正式に征南将軍に昇進しています。

そして曹仁が樊城に戻ると、間もなく関羽が攻めこんで来ました。

苦戦するも、しのぎきる

関羽は荊州の劉備領を統治していましたが、曹操が漢中で敗北し、動揺している機を捉えて北上を開始します。

そして関羽が攻めこんで来た時期にちょうど長雨となり、樊城付近にある漢水が氾濫しました。

すると曹操が援軍として送ってきた于禁うきんの陣営が水没してしまい、そこに襲撃を受けた于禁は、関羽に降伏します。

そして将軍の龐徳が斬られてしまいました。

曹仁は数千の軍勢で樊城を守っていましたが、城壁のうち、水没しなかったのはわずか数ばん(数メートル四方)というありさまでした。

関羽は軍船を用意して、数重に渡って包囲したので、やがて城内の食糧が尽きそうになります。

援軍も失われて重大な危機に陥りましたが、曹仁は将兵を励まし、必死の覚悟で守り抜く意志を示したため、彼らは動揺を抑え、曹仁の指示に従いました。

こうして粘っているうちに、南で孫権が動き、関羽の支配地を奪取します。

これによって関羽軍が動揺し、その上、新たに徐晃が援軍にかけつけてきました。

そして水も引き始めたので、徐晃の攻撃に合わせて曹仁もまた城から出撃し、関羽軍の包囲を脱しました。

包囲を破られ、基盤を失った関羽は撤退せざるを得なくなります。

こうして曹仁は関羽の撃退に成功し、荊州北部を守り抜くという、大きな功績を立てました。

その後、関羽は孫権軍に捕らえられ、処刑されています。

曹丕に取り立てられる

曹仁は若い頃は素行が悪かったのですが、武将になると身を慎み、厳格に法規を守るようになりました。

曹丕は弟の曹彰を戒める際に、「大将となって法規を遵奉すること、征南将軍(曹仁)のようでなければならぬ」と手紙を送るほどに、曹仁のことを高く評価していました。

このため、220年に曹丕は皇帝になると、曹仁を車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事、陳候に昇進させました。

荊揚益州諸軍事とは、荊州と揚州と益州の三州の軍を統括する、という役割です。

これは曹仁魏軍のナンバーツーに指名し、大陸南方の軍事を任せたことを意味します。

そして封邑も二千戸が追加され、三千五百戸となりました。

さらに曹仁の父にもおくりなが追贈されるといった、厚遇を受けています。

襄陽を奪取して大将軍になる

その後、曹仁は食糧不足のため、いったん荊州北部から撤退を命じられ、宛に駐屯します。

すると襄陽じょうようが孫権配下の陳劭に奪われたので、徐晃と力を合わせてこれを奪い返しました。

そして漢水南部の住民を北部に移動させ、魏の勢力を拡大しています。

この功績によって曹仁は大将軍となり、魏軍の頂点に立ちました。

少し後で、曹丕は曹仁を大司馬に昇進させていますが、これは魏の臣下全体の中でも、最上位と言える地位でした。

死去する

こうして位を極めた曹仁は、孫権に備えるために合肥に駐屯した後、223年に死去しています。

享年は56でした。

忠候と諡されています。

子の曹泰が後を継ぎ、鎮東将軍・仮節にまで昇進しています。

他に曹かい、曹範らも封地を与えられ、列侯になりました。

曹仁評

三国志の著者・陳寿は「曹仁らは皇室の一族として、高官となって重んじられ、君主を補佐して勲功を立てた」と評しています。

曹仁は曹操の親類縁者の中では、最も軍事の才能に恵まれていました。

攻勢に出た際には短期間で敵陣を攻め落としていますし、劣勢時にも果敢に敵を攻撃し、あるいは粘り強く守りきり、最終的に勝利を得ています。

そして勝利している相手には周瑜、馬超、関羽など一流の武将の名前がいくつもあり、相手が弱かったわけでもありません。

このような実績からして、曹仁は当時の最強武将の一角に数えられると思われます。

演義では地味な扱いをされていますが、正史を見る限りでは、夏候惇や夏侯淵、曹洪ら、曹操に初期から仕えた他の武将たちよりも、軍事的な能力が秀でていたのは確かです。

ですので、もしも曹氏の一族でなかったとしても、相当な地位にまで昇ることができたでしょう。

曹仁は、知勇兼備の名将だったのだと言えます。