娘の逸話
以下は余談となりますが、曹洪の娘は大変な美人で、荀彧の子・荀粲に嫁いでいました。
荀粲はつねづね女性に才知を求めず、容色で選べばいいと考えていたので、この娘の外見だけを気に入って結婚したのです。
そして華美な衣装をしつらえ、着飾らせて愛情を尽くします。
しかし何年かたつと、この娘は亡くなってしまいました。
友人が弔問に訪れると、荀粲は精神的にまいっている様子でした。
友人が「才色兼備な女性は得がたいものだと言いますが、あなたは容色のみを選んで結婚されました。美しいだけの女性に巡り会うのはそれほど難しくないのに、どうしてそんなに嘆かれるのですか?」とたずねます。
すると荀粲は「佳人は二度とは得がたいものです。振り返ってみると、亡き妻には国を傾けるほどの美貌はありませんでしたが、それでも簡単に、もう一度巡り会えるものではありません」と答えました。
その後も荀粲は立ち直れず、一年後には悲痛のあまりに死んでしまいました。
はじめは容貌だけで選んでも、その愛情は真剣なものだったのでしょう。
ところで、曹洪の娘が大変な美人だったというのは、彼が好色で、美しい女性と子をなしたことが影響しているのだと思われます。
曹洪評
三国志の著者・陳寿は「曹洪らは皇室の一族として、高官となって重んじられ、君主を補佐して勲功を立てた」と評しています。
曹洪は飛び抜けて高い能力はありませんでしたが、各地で無難に戦功を立てており、一定の能力は備えている人物でした。
何度か小さな敗北はあったのですが、深刻な打撃を受けたことはなく、功臣としての待遇を受けるにふさわしい実績は残しています。
しかし、裕福なのにケチであり、そのせいで曹丕に処刑されそうになった、という逸話が強烈なため、その印象だけが強くなっています。
曹操の一族は、なにかと癖の強い人物が多いのですが、曹洪もまたその一員にふさわしい性格を具えていたのだと、言えるかもしれません。