新府城の建築
武田氏が危機に陥る中、勝頼は防備の堅い韮山の地に新府城を築城することにします。
これまでの居城である躑躅ヶ崎館は城塞としての防御力は低く、心もとないと考えたのでしょう。
信玄の時代であれば、そもそも本拠地まで攻め込まれることがなかったので、防御力の高い拠点は必要なかったのですが、この点でも信玄と勝頼の力量の差が浮き彫りになっています。
この新府城の建設はただでさえ動揺していた武田領の情勢を、さらに悪化させてしまいます。
城の建設と軍団の再編成のための費用の捻出を国人衆たちに課したのですが、これが重い負担となって国人衆の反発を招きます。
信玄は「人は石垣、人は城」という言葉を残しており、人の結束こそが国を守る力だと考えていました。
この反対に、勝頼は城塞を頼りにしようとして人の結束をないがしろにした結果、家臣たちから見放されてしまいます。
木曽義昌の離反
1582年にはとうとう信濃木曽谷の領主、木曽義昌が勝頼から離反します。
新府城建設費の負担に不満を抱いたことが原因であると言われています。
ただでさえ高天神城を見捨てたことで求心力が落ちていたのに、負担の増大を強いてさらに人心の離反を招いたのは、明らかに失策であったと言えましょう。
こういった行動を見るにつけ、勝頼には人の心情をおもんばかる能力が欠けていたように思えます。
木曽義昌は信玄の娘婿であり、勝頼の義理の弟でもありました。
勝頼は親族に裏切られたことになります。
武田領への侵攻の開始
この木曽義昌の寝返りをきっかけに、織田・徳川・北条の三勢力は、ついに武田領への本格的な侵攻を開始します。
勝頼は木曽義昌への討伐軍を派遣しますが、織田の支援を受けた木曽勢に敗れ、撃退されてしまいます。
その間に織田が飛騨と信濃方面から、徳川が駿河方面から、北条が関東方面から攻め込んできます。
これに対して武田軍は組織だった抵抗をすることができませんでした。
さらに悪いことに、連合軍の侵攻が始まったその日に浅間山が噴火しました。
浅間山の噴火は武田氏にとって凶兆であるとされており、当時は現代よりもそういった自然現象への畏怖心が強かった時代なので、武田領国での動揺はさらに強まったと思われます。
勝頼は天運にも見放された、といってよいでしょう。
武田氏の終焉
武田側の防衛線を構築するはずの前線の拠点は次々と、戦わずして降伏していきます。
信濃の伊奈城、大島城、松尾城、駿河の田中城などがこれにあたります。
さらに武田一族の重鎮である、親族衆筆頭の穴山信君(信玄の甥)が織田への服属を誓うにいたり、武田領の混乱と動揺はさらに拡大していきます。
組織だった抵抗を示したのは、勝頼の弟である仁科信盛が守る高遠城だけでした。
侵攻軍にまるで対抗できなかったのは、それだけ武田氏の結束が崩壊しており、勝頼が支持されていなかったことを示しています。
甲斐本国も危機に瀕し、勝頼は建設途中の新府城に放火し、迎え入れることを表明した小田山信茂の守る岩殿城に逃げ込もうとします。
しかし変心した小田山信茂は勝頼が自分の領土内に入ることを拒否し、勝頼は進退窮まってしまいます。
追い詰められた勝頼は死を覚悟し、武田家ゆかりの地である天目山を目指します。
その途上で追手の滝川一益軍に捕捉され、残ったわずかな家臣が防戦する間に、息子である信勝や夫人とともに自害して果てました。
こうして戦国大名としての武田氏は滅亡しました。
勝頼はこの時37歳でした。
(余談ですが、最後の最後に勝頼を裏切った小山田信茂は、侵攻軍の総大将である織田信忠にその不忠を責められ、嫡男もろともに処刑されています。彼は信玄の従兄弟であり、親族衆の中では勝頼に協力的でした。ぎりぎりでの変心の理由は不明です。)
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