歴史上のもしも
勝頼がはじめから信玄の後継者となる立場にあり、それにふさわしい教育と扱いを受けていたら、とそのような「もしも」に思いをはせてみれば、勝頼への同情的な意見が生まれてくるのもわかるように思えます。
本人の能力と経験不足に加え、従属勢力の出身であり、側室の子であり、大勢力の当主になるにはなにもかもが勝頼には足りていませんでした。
信玄と同じように勢力を伸ばせるほどの才能は勝頼にはなかったでしょうが、一門衆との関係が良好で、信玄の遺した家臣たちの補佐が得られやすい立場にあれば、江戸時代に数十万石の勢力として残った毛利輝元や上杉景勝のような存在くらいにはなれたのではないかと思います。
その後の武田氏
勝頼以後の武田氏は穴山信君が後を継いだものの、本能寺の変の際に京都周辺で落ち武者狩りにあって死亡しています。
穴山信君は徳川家康に外見が似ていたため、間違って討たれたという逸話が残っています。
その後は家康のはからいで信君の息子、信治が後を継ぎますが、16歳で病死し、子どもがいなかったために断絶してしまいます。
家康が自身の五男に武田信吉と名のらせて武田氏の名跡を継がせますが、こちらも病弱で、子どもを遺さずに病死したため、再び断絶しています。
このあたり、どうも武田氏は不運に取り憑かれてしまっていたようです。
それ以外の武田氏の血統では、信玄の次男の子孫が江戸時代に幕臣となり、この家は現在まで続いているそうです。
勝頼の子では娘の貞姫が生き延び、足利公方家に連なる高家旗本の正室となり、子孫は幕末まで家名を保っています。
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