武田勝頼は無能か有能か?

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勝頼の弱い立場

武田氏は当主の血縁者である「一門衆」の力が強く、彼らが勝頼が武田家の当主となることを認めたがらなかった可能性も高いです。

ついこの前まで武田姓すら名のっておらず、武田氏に攻め滅ぼされていまは従属関係にある諏訪氏の娘との間に生まれた子なわけですから、後継者となるにはその背景となる力や正当性に欠けている、と見られていたのかもしれません。

そういった事情から、勝頼と一門衆との関係はうまくいかなかったと言われています。

本来であれば一門衆が当主を支えることで、家の結束が高まって勢力も強くなるのですが、勝頼にはそれを実現するための求心力に欠けていました。

この点は勝頼個人の努力によっては埋めがたいハンデであり、勝頼に責任はありません。

ともあれ、勝頼は自分の力を周囲に誇示する必要がありました。

実力を示すことによって武田氏の当主にふさわしい人間なのだと、家臣たちを納得させる必要があったのです。

信玄死後の短い活躍期間

信玄の死後に織田・徳川の勢力が勢いを盛り返し、三河や遠江、美濃において武田に対する攻勢を強めてきます。

これに対抗するために勝頼も盛んに兵を出し、美濃の明智城や遠江の高天神城を攻め落とすなどの戦果をあげます。

特に高天神城は信玄が攻め落とせなかった城であったことから、これを攻め落としたことが勝頼の軍事能力を高く評価する根拠とされることが多いです。

もっとも、信玄は攻めてはみたものの、高天神城が堅城であり、無理に落城させようとするとかなりの損害を出すであろうことを察知して一日で兵を引き上げてしまったので、落とせなかった、と声高に主張するほどのことでもなかったりするのですが。

とは言え、まだ実績の乏しかった勝頼からすると、自分の功績を過分に誇る必要があったのでしょう。

明智城においても、救援しようとした織田信長の軍が間に合わないほどの速攻で攻め落とすことに成功しています。

勝頼は軍事面では決して無能ではなかったことがこれらの事績から証明されています。

しかしながら、このあたりまでが勝頼の短い(1574年のみの)絶頂期であったと言えます。

長篠の戦い

1575年になると、有名な「長篠の戦い」が発生します。

この戦いは武田軍が織田・徳川連合軍に大敗した戦いとして知られています。

また、織田軍が鉄砲を大量投入して、武田の騎馬隊を殲滅した画期的な戦いだったとも言われています。

この時に投入された鉄砲の数やその運用法について現在では諸説あり、実はそこまでたくさんの鉄砲ではなかったとか、織田・徳川側もかなりの損害を出していた、などと言われています。

ただ実際の戦いの結果として、武田側は多くの名のある有能な武将を失い、織田・徳川側にはそういった損害はなかった(損害は下級兵士である足軽が主だった)、ということがはっきりとしています。

そのため武田軍が大敗した、ということだけは確かです。

ここで戦死したのは山県昌景、内藤昌豊、真田信綱・昌輝兄弟などで、いずれも信玄時代に戦場で多くの功績をあげた武将たちです。

彼らは戦いの前に状況が不利であること(織田・徳川軍が堅牢な陣地を築いて待ち構えていたこと)から撤退を進言しましたが、勝頼はそれを聞き入れずに戦闘を強行し、結果として多くの損害を出すに至りました。

勝頼は信玄に長年仕えた老臣たちとの折り合いが悪く、それも意見を聞き入れない原因となっていたようです。

家中統率のため、戦闘によって結果を出さなければ、という焦りもあったのでしょう。

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