勝頼への評価が悪いものになるのはやむを得ないのでは
こうして事績を並べてみると、信玄の後継者となった翌年にいくつか城を落とした以外には、その行動のほとんどが武田氏を衰退させる方向に作用しています。
特に大きな痛手となったのが「長篠の戦いの大敗」「御館の乱における対応の誤り」、そして「新府城の築城の強行」の三つでしょう。
長篠の戦いは軍事面での大きな失敗であり、御館の乱への介入は外交面での大きな失敗であり、新府城の築城は勢力統制上の大きな失敗です。
大勢力の当主として必要な能力や判断力が備わっていなかったことが、これらの事績から証明されています。
本人にその能力がなくとも、優秀な補佐役がいればその時期は国を維持できるものですが(三国志の劉禅と諸葛亮、あるいは毛利輝元と小早川隆景のように)、勝頼の周囲にはそれを果たせるだけの優秀な家臣もいませんでした。
とはいえ後を継いだ直後は信玄の遺した家臣団が健在であったわけで、いなかったというよりも、勝頼が使いこなせなかったのでしょう。
たとえば信玄の重臣であった高坂昌信は幾たびか勝頼に進言していますが、それらを勝頼が聞き入れなかったことなどが記録として残っています。
この点も人望という面から見て評価できません。
滅亡時に勝頼のために最後まで戦ったのが弟の仁科信盛と実家である諏訪氏の当主しかいなかったこと、小山田信茂に最後の最後に裏切られたことから見ても、家中では当主でありながら、実質的に孤立していたのでしょう。
武田氏の滅亡には信玄の責任も大きい
では武田氏の滅亡の原因がすべて勝頼ひとりに負わせられるかというと、それは勝頼に酷であるかもしれません。
少々きつい言い方ですが、勝頼が武田氏当主にふさわしい器でなかったとしても、それは勝頼の責任ではないわけですので。
それだけの能力と背景を持たない勝頼を後継者にした、信玄の責任も問われなくてはならないでしょう。
そもそも本来後継者になるはずだった義信が後を継いでいれば、武田氏がここまで急速に衰退し、滅亡にまで追い込まれることはなかったかもしれません。
信玄の嫡男であり、初めから後継者であると定められていた正当性を持つ義信であれば、他の一門衆がこうもあっさり離反することはなかったでしょうから。
義信の母は名門の公家の出身である三条の方であり、血統的にも問題がありません。
その義信を駿河侵攻のために切り捨てたのが信玄です。
武田氏は駿河を手に入れるかわりに、かえって大きなものを失ってしまったのではないかと思います。
信玄は非常に領土欲の旺盛な武将でしたが、それが武田氏の勢力としての寿命を縮めてしまった側面もあると思われます。
信玄は今川に限らず織田、徳川、北条との同盟をいずれも破っており、外交はすべて自分の利益のためだけに利用していました。
戦国時代なので同盟が裏切られることはそれほど珍しくもないのですが、それにしても信玄の外交には信義がなさすぎたのは確かです。
いつの時代でも裏切られたら人は怒り、恨みを抱くものであり、それに変わりはありません。
その負債が勝頼の代になって一気に吹き出してしまった観があります。
信玄はその実力によって同盟破棄による反動をねじ伏せていましたが、勝頼にはそれはできませんでした。
信玄が強すぎたのもよくなかったのかもしれません。
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