茶々(淀殿) 豊臣秀頼を生んだ女性の生涯について

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関が原の戦い

1600年になると、三成が家康打倒のために挙兵しますが、茶々はこれを三成の謀反ととらえ、家康と毛利輝元に書状を送って鎮圧を依頼しています。

しかし毛利輝元は三成と結託して大坂城に入り、反家康連合である「西軍」の総大将となります。

こうして家康と三成、どちらが勝利するかわからない状況になったため、茶々はいずれにも味方せず、両者の動きを傍観する立場を取ります。

そして三成には秀頼のお墨付きなどの後ろ盾を与えず、どちらが勝利しても秀頼の地位が保てるようにと配慮しました。

このあたりの動きを見るに、茶々はある程度の政治的な思考力を備えた女性であったことがうかがえます。

下手にどちらかに加担して敗北した場合、秀頼が豊臣家の当主の地位を追われる可能性もありましたので、これは正しい判断だったと言えます。

やがて美濃の関ヶ原で両軍の主力決戦が行われ、これに家康が完勝します。

こうして家康は秀吉死後の最大の実力者としての地位を確立し、豊臣家からの政権の奪取を進めていくことになります。

家康との関係

関ヶ原の戦いの勝利後、家康は茶々の腹心である大野治長に、茶々と秀頼が西軍に加担していないことはわかっていると伝え、茶々を安心させます。

家康が大坂城に入ると、茶々は家康を饗応し、自分の酒盃を家康に渡し、その後で秀頼にそれを与えるようにと求めました。

これにより、家康に父親代わりとなって、秀頼を保護して欲しいと願い出たことになります。

しかし、家康は容赦なく自身の政権の確立と豊臣家の権力の削減を進め、茶々との関係は悪化していきます。

豊臣家の転落と権力の向上

関ヶ原の戦いの後、家康は豊臣家の勢力を削るため、その直轄地を大幅に削減し、自身や協力者たちの領地として配分しました。

この結果、222万石あった豊臣家の領地は、わずか65万石にまで減少してしまいます。

こうして豊臣家は一大名の地位に転落し、茶々は大いに失望させられることになりました。

一方で、天下人の城ではなくなった大坂城からは、有力な大名たちが去ることにもなり、茶々は秀頼の母として大坂城内の権力を全て掌握し、豊臣家に独裁体制を敷くことになります。

乳母である大蔵卿局とその子・大野治長や、同じく乳母である饗庭局(あえばのつぼね)らの女性たちを重用し、豊臣家の家政を取り仕切ります。

茶々は父も母も失っていたことから、乳母たちとのつながりが強かったようで、豊臣家はこの、やや世間知らずの女性たちが中心となって運営されることになり、これがある種の歪みを生んでいくことになります。

このようにして、豊臣家の勢力が縮小したことで、かえって茶々個人の権力は増大するという結果になりました。

権力志向が強い茶々からすると、この状況は必ずしも悪いものとは言えなかったでしょう。

一方で、天下を広く見渡して情勢を冷静に判断できる人材を欠いていたことから、その後の豊臣家のたどる道筋は、いささか危ういものになっていきます。

また、大坂城という巨大で壮麗な城と、秀吉が遺した莫大な財産を手に入れたことから、茶々の自意識は権力と富に取り憑かれて肥大化していき、現実的な判断力を失っていくことにもなります。

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