家康の将軍就任と、秀忠への継承
この頃の茶々と側近たちは、いずれ家康が豊臣家に権力を返還するのではないかという期待を持っていました。
そうなることで、自分たちの立場がさらに強くなり、身分が高いものになっていくべきだ、という願望もあったのでしょう。
しかし家康は1603年に征夷大将軍に就任し、武家の棟梁となって江戸に幕府を開きます。
そして1605年には嫡男の秀忠に将軍位を継承させ、徳川政権の継承の体制を確立します。
この時に京都や大坂では、秀頼が同時に関白に就任するのでは、という噂が流れていましたが、これは実現しませんでした。
これにより、家康は豊臣家に政権を返還する意向がないことが明らかになり、茶々と家康の関係がさらに悪化します。
この時に家康は秀頼を右大臣に就任させ、それを口実に上洛を要請し、将軍となった秀忠に挨拶に出向くようにと促しています。
これを実行して秀頼が徳川家に臣従すると、後に天下人になる道が絶たれるため、茶々は頑としてこれを許さず、両者の対立が表面化していくことになります。
家康の意向
秀頼と孫の千姫を結婚させていたことや、豊臣家はかつての主家だったこともあり、家康はこの時期にはまだ豊臣家を懐柔して存続させる意向を持っていたようです。
しかし豊臣家の存続のためには、秀頼が徳川家への臣従をはっきりと表明する必要がありました。
豊臣家が新たな天下人となった家康の下について、「もはや秀頼は天下人ではないし、それを目指すこともしない」と世間に明らかにしなければ、徳川家の天下がいつまでも定まらないからです。
しかし秀頼が天下人となって、かつての栄華を取り戻すことを夢見る茶々はこれを認めず、このために話がこじれていきます。
この頃には既に、豊臣家から往年の実力は失われており、徳川家に従うのが現実的な選択だったのですが、淀殿とその側近たちには、それが理解できていなかったようです。
秀頼が成人して立ち上がれば豊臣家に恩のある大名たちが味方となり、徳川家など倒してしまえるだろうと、そのような願望を抱いていました。
しかし実際には、家康と秀忠は着実に徳川政権の支配体制を強化しており、時間がたつにつれ、それは盤石なものとなっていきます。
豊臣家に恩のある大名たちも、徳川幕府からの命令によって築城などに追い使われ、飼いならされつつありました。
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