秀吉と秀次の対立
秀頼が生まれた頃には、秀吉は甥の豊臣秀次を後継者に指名しており、関白の地位も継がせていました。
鶴松が亡くなったことで、秀吉はもう自分には子どもが生まれないだろうと思い、秀次を養子にして豊臣政権の後継者に指名していたのです。
しかし秀頼が生まれたことで状況が変わり、秀吉は再び後継者問題に頭を悩ませることになります。
秀頼に後を継がせようにもまだ幼すぎ、成人している秀次をそのまま関白の地位に据え置いた方が、政権は安定します。
しかしそれでは秀頼が将来関白の地位につけるかどうかがわからなくなります。
秀次にも子どもがおり、彼もまた自分の子どもに後を継がせたい、と考えるのが自然なことだからです。
秀吉は秀頼にもある程度の権力は分け与えたいと思い、日本を5つに分け、5分の4を秀次に任せ、5分の1を秀頼に任せる、といった構想を述べるようになります。
やがて秀頼の誕生によって地位が脅かされるのでは、と動揺した秀次は、情緒が不安定になり、辻斬りを行っているなどの悪評が立つようになります。
これを受け、秀吉は秀次の排除を考えるようになっていきました。
何の落ち度もなければ排除は難しいですが、秀次自身がその隙を自ら作ってしまったことになります。
我が子を豊臣政権の後継者としたい茶々も、何らかの働きかけを行っていたと推測されます。
秀次の処刑と秀頼の擁立
やがて1595年になると、秀吉は秀次が謀反を企んでいると嫌疑をかけ、関白の地位を取り上げ、高野山に追放します。
そして使者を送って秀次を自害させ、さらに秀次の妻子を皆殺しにしてしまいました。
秀次の子どもが生きていれば、いずれ秀頼の敵となる可能性があったからでしょう。
このような血なまぐさい過程によって秀頼の地位が確立されたことになりますが、同時に豊臣家の力が大きく削がれたことにもなりました。
関白である秀次の元には多くの大名の娘たちが嫁いでおり、それが豊臣家と各地の大名家を結ぶ絆にもなっていたのですが、これらが全て断ち切られてしまったからです。
また、軍事や政治の経験を積んだ成人男子が豊臣家からいなくなってしまったことにもなり、これが秀吉死後の豊臣家の衰退を招くことにもつながります。
さらに秀次の謀反に関与したと疑われた大名たちを徳川家康が助けたことから、その人望が高まることにもなりました。
このあたりの動きに茶々がどの程度関与していたのかは不明ですが、茶々の生んだ秀頼の存在が、豊臣家の運命を大きく変えたことは確かです。
秀吉の死と家康の台頭
1598年になると秀吉は体調を崩し始め、やがてこの年の8月に死去してしまいます。
この時に秀頼はまだ5才でしかなく、政権を担えるような状態ではありません。
このために秀吉は徳川家康や前田利家らを五大老に指名し、秀頼の後見を務めるようにと依頼しました。
また、石田三成らを五奉行に任じ、彼らの合議によって秀頼を支えて政権を維持するようにと命じます。
しかし秀吉の死後に家康は自身の野心を明らかにし、私党を形成してその勢力を拡大していきます。
これが家康と三成との間に確執を引き起こし、やがて関ヶ原の戦いが勃発します。
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