茶々(淀殿) 豊臣秀頼を生んだ女性の生涯について

スポンサーリンク

大坂城の堀が埋め立てられる

この時の和睦の条件に、大坂城の堀を埋め立てること、というものがあり、茶々はこれを受け入れます。

そして堀が全て埋め立てられたことで、大坂城からは防御力が失われ、もはや徳川家に抵抗するための手段は失われました。

その上、大坂城には徳川家に内通している者が数多くおり、情報はすべて筒抜けになっていました。

秀頼の妻・千姫は徳川秀忠の娘ですし、織田氏の一族同士ということで用いていた織田有楽斎や織田信雄らも、みな家康に通じていました。

そして実際に戦ってみた結果、もはや大名たちへの豊臣家の影響力は皆無になっていることもわかりました。

このような状況下では、これ以上の抗戦が不可能であることは茶々も理解していたでしょうが、それでも大坂城を捨てて秀頼とともに江戸に移り、わずかな領地をもらって生き延びる、という選択をすることはありませんでした。

徳川家に全面的に屈服すれば命だけは助かるかもしれませんが、そこまでして生き延びたいとは考えなかったようです。

それは自らの誇りのためなのか、豊臣家の栄光を完全に潰えさせたくなかったからなのか、衰えたりといえども、豊臣家を掌握した己の権力を手放したくなかったからなのか、いずれの理由なのかは定かではありません。

ともあれ、ここからの茶々は自ら滅びへの道を選択し、それを歩んでいくことになります。

大坂夏の陣

1615年になると、茶々は大坂からの国替えや、牢人衆の追放という家康からの要求を拒否し、再び対決姿勢を明らかにします。

家康は一度戦って打ち負かせば、茶々もさすがにあきらめて徳川家に屈服するかと考えていたかもしれませんが、この対応を受け、ついに完全に豊臣家を滅ぼすことを決意します。

そして15万の軍に動員をかけ、大坂城に向けて進軍させます。

家康は大坂城が無力化したことから、数日でこの戦いの決着がつくと見ていたようで、「三日分の腰兵糧を持つだけでよい」と家臣たちに命じるほどの余裕をみせていました。

圧倒的に不利な状況であったため、大坂城からは退去するものが相次ぎ、こちらの戦力は7万8千にまで減少しました。

残った武将たちは軍議を開き、堀がなくなったために籠城が不可能となり、家康の首を取って逆転する以外に勝利の道はないと結論を出します。

こうして豊臣軍は城から打って出て、徳川軍を攻撃することになります。

敗北と落城

1615年の5月6日に最初の戦いが行われますが、後藤又兵衛や木村重成らの武将たちが戦死し、大坂方はいよいよ追い詰められていきます。

翌日には最後の決戦が行われる情勢となり、真田信繁は秀頼自らが出陣し、兵たちの士気を高めるようにと要請をします。

しかし茶々はこれを強く拒否し、ついに秀頼は生涯を通じて一度も戦場に立つことがありませんでした。

秀頼を大事に思うあまり、その身を案じて戦場に立たせなかったのでしょうが、武将として育てる気がないのに多くの領地を保有しようとするのは、矛盾した行いだったと言えます。

戦わせたくないのであれば、領地を捨てて完全に公家になりきってしまえば、秀頼は生き延びることができたでしょう。

豊臣家は摂関家でもありましたので、藤原氏のような存在となって存続することは十分に可能でした。

領地と武力を捨て去ってしまえば、家康もあえて豊臣家を滅ぼすことまではしなかったでしょう。

茶々は武家も公家をも制した豊臣家の栄光に固執したあまりに、我が子の運命を誤らせてしまったことになります。

その後に行われた戦いでは、真田信繁や毛利勝永の奮戦のかいあって一時は家康を追いつめますが、やがて大坂方は大軍の前に力尽き、敗れ去ります。

そしてその日のうちに牢人衆の一部が寝返って大坂城に火を放ち、略奪を行うなどの事態となり、豊臣軍は完全に壊滅しました。

【次のページに続く▼】