その最期
茶々は秀頼とともに城内の山里丸に逃げ込みますが、やがてそこも徳川方に包囲されます。
大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願しますが、家康はもはや手遅れであるとしてこれを受け入れませんでした。
これを受けて茶々はついに覚悟を決め、秀頼とともに自害して果てました。
大蔵卿局や大野治長らの側近と、かつて秀吉の家臣であった毛利勝永がこれに殉じ、豊臣家と縁の深い者たちも、ことごとく潰えています。
享年は46でした。
こうして茶々は、母と同じく落城とともにその死を迎えることになりました。
豊臣家の滅亡
秀頼には国松という子どもがいましたが、家康はこの子を処刑しており、豊臣家の嫡流を断ち切っています。
娘の天秀尼は助命されたものの、一生を寺で尼として過ごすことが条件となり、子を成すことはなく、淀殿と秀頼の血統は絶えています。
これまでに述べた通り、もしも茶々が早いうちに豊臣家の栄華を忘れて徳川家に臣従していれば、秀頼はある程度の身分を保って生き延びることができたでしょう。
しかし茶々は大坂城の主となり、そこから生じる権力に取りつかれ、これを手放すことができなくなっていたようです。
秀頼を生んだことで秀次の抹殺を招き、さらに自らの選択で豊臣家を完全に滅ぼしてしまったことを思うと、その存在は豊臣家にとっての災厄であったとも言えます。
秀吉が茶々を選んだのか、茶々が秀吉を選んだのかはわかりませんが、いずれにしても、その出会いが家の滅亡という結果を招きました。
野心に取り憑かれ、権力を捨てられずに滅んでしまった誇り高い女性、というのが茶々が歴史で演じた役回りだった、ということになるかと思われます。
前半生の悲劇は茶々が知らぬところで進行し、その身に降りかかって来たものでしたが、豊臣家の主となってからの事態は、自らの選択で招き寄せたものです。
茶々は自ら滅びの道を選び、子も孫も死なせてしまうことになりました。
その人生は、エジプトの女王・クレオパトラのたどった道に似たところがあり、富と権力に取り憑かれることの恐ろしさを伝えてくれるようでもあります。