曹真を撤退させるように進言する
その後、曹真は再び上奏し、今度は子午道から進軍したいと申し出ます。
陳羣はまた、その作戦には問題があると指摘し、軍事活動によって発生する費用についても、合わせて申し述べました。
そして陳羣の意見を取り入れた詔が曹真に下されます。
しかし曹真は、詔が出されたことを根拠として、作戦を実行に移しました。
すると連日にわたって雨が降り続き、曹真の進軍は困難となります。
このため、陳羣は詔を出して曹真を帰還させるべきだと述べ、曹叡はこれに従いました。
陳羣は自ら兵を率いて戦うことはありませんでしたが、軍事のことも的確に判断できる見識を備えていたのでした。
皇女の葬礼に意見を述べる
後に皇女の淑(曹叡の幼い娘)が亡くなり、領地が追贈され、平原の懿公主とおくりなされます。
この時、陳羣は上奏して意見を述べています。
「生命の長短には運命があり、生存するも亡くなるも、それぞれに分岐しています。
ゆえに聖人は礼を制定するにあたり、あるいは抑え、あるいは極まったものとし、ほどよくまとめることを求めました。
防の墓(身寄りのない者を葬った墓)は修理せずに倹約し、嬴や博には帰らない魂がありました。(古代の貴族が自身の長男を、旅先の地である嬴と博の間に葬った故事を引いている)
そもそも、優れた人物の動向は天地と合一し、永遠に伝えられます。
また、大徳は規則を踏み外さず、その行動は規範となります。
八歳は下殤(葬礼が定められた最も低い年齢)であり、礼は整備されていません。
(古代の中国では、八歳未満で亡くなった場合には、喪に服さないことになっていた。八歳が葬儀を行う最小限の年齢)
ましてや、亡くなって一年にもなっていませんのに、成人の礼をもって葬送し、加えて喪に服すことを決め、朝廷を挙げて喪服を身に着け、朝夕ともに哭(大声をあげて悲しみを示す葬礼)をしています。
このようなことは、古代以来あった試しがありません。
しかしながら、ご自身が陵墓にまでおもむかれ、出発を見送られるとか。
願わくは、陛下には無益で損害のある行いを抑えて下さい。
ただ全ての群臣が葬送を見送るだけにして、お車でお出かけにならないで下さい。
これは万国の者たちが心から望んでいることです。
聞くところによりますと、お車で摩陂に行幸なさるおつもりのようですが、実際には許昌にまで行かれるとか。
二宮(皇帝と太子)、上下の群臣たちがことごとく東に向かうので、朝廷の者たちはみな、身分の大小を問わず驚き、怪しんでいます。
ある者は死者の帰還を避けるためだと言い、ある者は宮殿を移すために、便利な所に移動するのだろうと言い、ある者は理由を理解できないでいます。
臣が考えますに、吉凶は運命によって定まり、禍福は人間によるものですので、安らぎを求めていたずらに移動しようとも、それは無益なことです。
もしどうしても移動して避けようとするのなら、金墉城の西宮と孟津の別宮を修築し、どちらにも分散してとどまることができるようになさいませ。
宮廷を挙げて雨にさらされ野宿し、養蚕や農業が盛んな時期の要務を損なうことがないようにしてください。
また、賊の地にこのことが伝われば、大衰(皇帝の死)があったのかと思われるでしょう。
そして費用が大変にかかり、計算がしきれないほどです。
優れた士や賢人は、盛衰や安危にあたり、道理にのっとり、運命を信じ、いたずらに家を移して安寧を得ようとはしません。
郷村はその教化に従い、恐怖心を抱くことはありません。
万国の主である帝王が平静であれば、天下は安んじ、動けば天下は騒擾します。
行動するも止めるも、動くも静まるも、軽々しくあってよいものでしょうか」
しかし、曹叡は陳羣の意見を聞きませんでした。
宮殿の造営を批判する
青龍年間(233〜237年)になると、宮殿が造営され、建築にかり出された農民は、農業に取りかかる時期を奪われてしまいます。
これを受け、陳羣は上奏しました。
「禹(古代の王)は堯・舜が築いた盛時を継承しましたが、なお宮殿は簡素で、衣服は粗末でした。
ましていまは動乱の後で、人民はとても少なくなっています。
漢の文帝・景帝の時代と比較すると、一つの大きな郡であるに過ぎません。
(実際にはそこまで少なくはなく、陳羣は修辞として大げさに述べている)
加えて国境には戦いが有り、将士は労苦にみまわれています。
もし水害や干害が発生したら、国家にとって深刻な憂いとなります。
かつ、呉や蜀がいまだ滅ぼされておらず、社稷は不安定な状況です。
呉蜀が動きを見せないうちに、軍を訓練し、農業を盛んにし、有事に備えるべきです。
いま、この危急の事態に対処せず、先に宮殿を建てるのであれば、民が困窮し、どのようにして敵に対応するのか、臣は懸念いたします。
その昔、劉備は成都から白水にまで、多数の駅舎を作り、人員を費やしましたが、太祖(曹操)は民が疲弊させられていることをご存知でした。
いま、中国が労力を消費するのは、呉や蜀の望むところです。
これは安全と危険を判断するべき機会です。
陛下はそのことをよくご考慮ください」
曹叡は次のように答えます。
「王者の宮殿は、いくつも作られるべきである。
賊を滅ぼした後は、すでに作られたものを守るだけでよくなるからだ。
どうして再び役務を興すことがあろうか。
これは君の職務であり、蕭何の大いなる計画であるぞ」
蕭何は前漢の祖である劉邦に仕えた宰相です。
劉邦の留守を預かっている間に、都に壮大な宮殿を建てたのですが、そのことで劉邦にとがめられます。
これに対し、蕭何は初めに立派な宮殿を作っておくことで、子孫たちが宮殿を新たに造営しないようにするための計画なのだと答えました。
曹叡は、陳羣は蕭何と同じ立場なのだから、同じようにするようにと求めたのでした。
陳羣はまた上奏します。
「その昔、漢祖(劉邦)はただ項羽とのみ天下を争いました。
項羽が滅亡すると、宮殿は焼き払われてしまいます。
ゆえに蕭何は武器庫や食料庫を建造しましたが、これらはみな緊急に必要とされたのです。
それでもなお、壮麗なものではありませんでした。
いま二つの敵は平定されておらず、昔の事例と同じに考えるのはよろしくありません。
そもそも、人は欲することがあると、それをもっともらしくするために理由をつけるものです。
ましてやそれが皇帝であれば、あえて異論を唱える者はいません。
以前に武器庫を壊そうとした際には、「壊さないわけにはいかない」と言われ、後から設置したくなると、「設置せずにはいられない」と言われました。
もしどうしてもそれを作ろうとされるのであれば、臣下の言葉でくつがえすことはできません。
もし、少しくお心を留められ、はっきりとご意向を変えられるのであっても、これもまた臣下の力の及ばざるところです。
漢の明帝は德陽殿を建造しようとしましたが、鍾離意がいさめると、その意見を取り上げました。
後にまたそれを作ろうとし、宮殿が完成すると、群臣たちに向かって言いました。
『鍾離尚書が健在であれば、この宮殿を完成させることはできなかっただろう』
王者たるものが、どうして一人の臣下をはばかりましょうや。
これは人民のためです。
いま臣は、少しも御耳に言葉を届かせられないのであれば、鍾離意には遠く及ばないということになります」
この話の結果、曹叡は当初の計画をいくらか縮小しました。
先の皇女が亡くなった時の様子と合わせて、曹叡には浪費癖があり、陳羣はそれを抑えようと苦心していたことがうかがえます。
劉廙を助けるが、恩を着せず
まだ曹操が存命だったころ、朝臣の劉廙の弟が、魏諷が起こした反乱に加担する、という事態が発生しました。
このため、劉廙もまた誅殺されることになりました。
この時、陳羣は曹操に劉廙の罪の減免を進言します。
すると曹操は「劉廙は名臣だ。わしも罪を許してやりたいと思っていた」と述べ、もとの地位に復帰させました。
これを受け、劉廙は陳羣に深く感謝しましたが、陳羣は次のように述べます。
「刑罰を論じたのは国のためで、個人的な動機によるものではない。
そして赦免は明君(曹操)の意向によって実行されたことだ。わしに何の関わりがあろう」
その度量の広さとおごらない人柄は、このようなものでした。
やがて亡くなる
陳羣は青龍四年(237年)に亡くなり、靖侯とおくりなされました。
子の陳泰が後を継いでいます。
曹叡は陳羣の功績と徳を追慕し、陳羣の領地を割き、一子を列侯に取り立てました。
死後に評価が高まる
陳羣は生前、上奏する時には草稿を破棄してしまい、皇帝以外にはその内容を知られないようにしていました。
このため、当時の人々の中には、陳羣が高い地位にいながら、意見をしていないと批判する向きもありました。
しかし正始年間(240-249年)になると、勅命によって群臣たちの上書が編纂され、陳羣の諫言の内容が知られるようになります。
朝廷の人士はその時にはじめて陳羣の意見を知り、みなが感嘆した、という話が残っています。
そして『袁子』という書籍において、
「陳羣は一日中、話をしていても、人の悪口を言ったことがなかった。
上奏文を数十篇も提出しながら、他の人間に知られることはなかった。
ゆえに陳羣は、君子から長者と呼ばれるのである」
と評されています。
陳羣評
三国志の著者・陳寿は「陳羣は名誉や道義を重んじて行動し、清廉だったので、高く評価された」と評しています。
陳羣は能力があるだけでなく、人格も優れており、このために魏の朝廷において尊重されました。
曹叡が浪費しようとした時にはこれを諌めており、温雅なだけの人物でもありませんでした。
また、陳羣は九品官人法を定めたことにより、後世からの政治研究の対象になってもいます。
