孫権と面会をする
張裔が出発するにあたり、孫権は引見をしました。
そして張裔に質問をします。
「蜀の卓氏の寡婦は司馬相如のもとへ出奔したが、君の土地の風俗は、どうしてそのようなものなのかね?」
卓氏の寡婦とは、司馬相如という男性と駆け落ちした、蜀の大富豪の娘のことです。
その後、貧窮にみまわれ、夫と一緒に飲み屋を経営して何とか生活していましたが、それに耐えているうちに親に許され、財産の分与を受けて幸せに暮らすようになりました。
これを受け、張裔は「私が思いますに、卓氏の寡婦は、まだ呉の朱買臣の妻よりはましでしょう」と答えました。
呉の朱買臣の妻とは、夫の出世を待ちきれず、貧窮に耐えかねて離婚した女性のことです。
つまり張裔は「親の賛成を得ずに駆け落ちしてしまった蜀の女性の方が、貧窮に耐えられなかった呉の女性よりはましです」と、故事を用いて切り返したのでした。
卓氏の寡婦が貧窮を耐えたことと、呉の朱買臣が貧窮に耐えられなかったことも合わさって、蜀の風俗の方がよいと述べたことにもなります。
この返答を聞いた孫権は、張裔には教養と知性があることを認識し「君は帰ったら、きっと蜀に起用され、ただの村人などにはならないだろう。
帰ったら、わしにどんなお返しをしてくれるのかな?」とたずねます。
すると張裔は、次のように答えました。
「私は罪を背負って帰るのですから、司直に生命を預けるつもりでいます。
もしも幸いにして首がつながっておりましたならば、58歳より前は、父母からもらった年齢ですが、それから以後は、大王(孫権)からの賜り物となります」
孫権は張裔の答えを聞くと、気分よく談笑をし、張裔はひとかどの人物であると認識しました。
孫権の追跡をかわして蜀に帰還する
張裔は面会を終え、宮殿から退出すると、愚者のふりをしきれなかったことを深く後悔します。
そしてすぐに船に乗り、急がせ、通常の倍の速度で蜀へと向かいました。
はたして孫権は、張裔には才能があるようなので、呉に留めおいた方が良いと考えました。
そして追跡させましたが、張裔はすでに永安の国境を越え、数十里(数十km)も蜀の内部へと進んでいました、
このために追いつかれることはなく、無事に帰還を果たしています。
諸葛亮に用いられる
蜀に到着した後で、諸葛亮は彼を参軍に任じ、軍府の事務を取りしきらせました。
さらに益州の治中従事を兼務させるなどし、さっそく張裔を起用しています。
その後、諸葛亮が北伐を開始するために漢中に駐屯すると、張裔は射声校尉の官位につき、向朗の元で成都の留府(留守政府)の事務を担当するようになります。
そして向朗が免官となった後に長史に就任し、留府をも取り仕切るようになりました。
楊洪からは長史にふさわしくないと評される
張裔が長史になる以前のこと、諸葛亮は張裔の旧友である楊洪に、張裔のことをたずねます。
これは張裔が長史にふさわしいかどうかを確認したのですが、楊洪は「張裔は能力は優れているものの、公平でないところがあるので、長史にはふさわしくありません」といった回答をしていました。
結局、諸葛亮は張裔を長史に任命するのですが、張裔は司塩校尉の岑述といさかいを起こし、諸葛亮から叱責される騒ぎを引き起こします。
司塩校尉は塩や鉄といった、当時の重要な資源を管理する役職で、長史である張裔とは協力して政務にあたるべき立場でした。
張裔がその岑述と私的な理由で争い、仇敵になってしまったことが、諸葛亮の不興を買ったのです。
結局、楊洪の指摘は正しく、張裔には人の上に立つには、いささか問題のある人物だったのだと言えます。
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