張郃 馬謖を打ち負かすなど、各地の戦いで活躍した魏の名将

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袁氏との戦いで活躍する

張郃は軍勢を与えられ、袁氏の拠点であるぎょうの攻撃に参加し、陥落させるのに貢献しました。

また、渤海ぼっかいで袁たん(袁紹の長男)への攻撃に参加し、別軍の将である雍奴ようどを包囲し、これを大いに打ち破ります。

そして北の辺地にある柳城にまで従軍し、張遼とともに軍の先鋒を務めました。

これらの功績によって、平狄へいてき將軍に昇進します。

各地の戦いに加わる

それから東萊とうらいに遠征し、管承かんしょうを討ち、張遼とともに陳蘭ちんらん梅成ばいせいといった賊たちを打ち破りました。

西方で馬超が反乱を起こすと、曹操に従って討伐を行ない、渭南いなんにおいて馬超と韓遂かんすいを撃破します。

それから涼州の安定を包囲し、反乱に加わっていた楊秋ようしゅうを降伏させました。

ついで夏侯淵とともにの賊である梁興りょこうと、武都ぶと郡のてい族を討伐します。

そして涼州で再起をはかる馬超を再び撃破し、反乱を起こしていた宋憲そうけんを平定しました。

このようにして、張郃は各地で優れた働きを見せています。

漢中の守備につき、劉備と戦う

曹操が漢中の張魯ちょうろを征伐した際には、張郃は先遣隊として諸軍を監督し、興和こうわにいた氐族の王である竇茂とうぼうを討ちました。

それから曹操に従って散関から漢中に入ると、張郃は再び先遣隊として五千の歩兵を率い、前進するための通路を確保しています。

そして陽平まで進軍すると、張魯は降伏しました。

このようにして、張郃は作戦上、重要な役割を曹操から任されています。

漢中の平定が成ると曹操は帰還し、漢中に張郃と夏侯淵かこうえんを配置し、劉備の攻撃を防がせることにしました。

このころには、劉備は蜀を支配下に置き、北にある漢中を狙うようになっていたのです。

張飛に撃退される

張郃は諸軍を率いて東、巴西の二郡を降し、その地の住民を漢中に移住させました。

それから宕渠とうきょに進軍したところで、劉備軍の将軍である張飛と戦います。

この時、張郃は狭い道を進んでいたところに張飛の攻撃を受けたので、撤退して南鄭なんていに戻っています。

そして盪寇とうこう將軍の号を授かりました。

陽平関の戦い

その後、劉備は漢中を奪取するため、多くの軍勢を動員しました。

劉備は陽平に到着すると、張郃は廣石こうせきに駐屯します。

劉備は一万以上の精兵を率い、十に部隊を分けて張郃に夜襲をしかけてきました。

張郃は親衛隊を率いて防戦の指揮を取り、劉備の攻勢を防ぎきります。

すると劉備は矛先を夏侯淵に変え、走馬谷そうばこくにあった備えを焼き払いました。

夏侯淵は火災の対応に向かい、他の道を進んでいたところで劉備軍と遭遇し、交戦します。

この時、劉備は配下の黄忠に命じて猛攻をしかけさせ、一度の戦いで夏侯淵を討ち取りました。

こうして主将を失ったので、張郃は陽平に撤退します。

夏侯淵は都督ととく(諸軍の指揮官)だったので、張郃よりも地位が高かったのですが、劉備は張郃の方を警戒し、夏侯淵は与し易いと考えていました。

このため、夏侯淵を討った後で劉備は「本命(張郃)を手に入れなければならぬ。こんな程度の戦果がなんになろうか」と述べています。

張郃の存在が軍を引き締める

こうして曹操軍は陽平関の戦いで総大将を失ったので、劉備がこの機に乗じてくるのではないかと恐れが広がり、全軍がみな色を失いました。

すると夏侯淵の司馬(補佐官)だった郭淮かくわいが、兵士たちに向かって言います。

「張将軍は国家の名将である。そして劉備からも恐れられている。ただいま事態は急を告げているが、張将軍でなければ安んじることはできないだろう」

そして張郃を新たな総大将に推挙しました。

これを受け、張郃は兵士たちの元に出向き、その気持ちを引き締め、陣営を鎮めます。

諸将はみな張郃からの命令を受け、節度を取り戻し、兵士たちの心も安定しました。

この時、曹操は長安にいましたが、使者を送って張郃にせつ(指揮権)を与えます。

やがて曹操は自ら漢中にやってくると、劉備は高山に立てこもり、積極的に戦おうとはしませんでした。

それを攻めあぐねた曹操は、漢中の諸軍を率いて撤退し、張郃を陳倉ちんそうに駐屯させます。

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