趙雲子龍 劉備に仕えて長坂で活躍し、劉禅を二度救った勇将の生涯

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益州攻略で戦功を立てる

212年になると、劉備は益州の攻略を開始しました。

そして荊州の留守を任せていた諸葛亮を、益州に呼び寄せます。

この時に趙雲は諸葛亮に従って、ともに益州に向かいました。

そして長江をさかのぼって江州に入ると、別働隊を率いて江陽を攻略し、成都で諸葛亮と合流するように命じられます。

趙雲はこの任務を果たすと、益州攻略が完了した後で、翊軍よくぐん将軍に昇進しました。

諸将への分与に意見を述べる

益州が平定されると、成都の建物や田畑などを諸将に分け与えよう、という話が持ち上がりました。

趙雲はこれに対して意見を述べます。

「前漢の霍去病かくきょへい匈奴きょうど(北方の異民族)がまだ滅亡していないからと言って、自分の屋敷を作ろうとはしませんでした。

現在、国にはびこっている賊は匈奴どころではなく、まだ平安は得られていません。

天下が平定されてから、それぞれが郷里に戻り、農耕をするのが一番適切です。

益州の民は戦禍にあったばかりですから、建物や田畑は彼らに返還するべきでしょう。

そうして住居に落ち着かせ、仕事に復帰させてから徴税をすれば、彼らも納得するでしょう」

劉備は趙雲の意見はもっともだと思い、分配をとりやめていますま。

子龍は一身これ肝なり

劉備軍と曹操軍が、漢中を巡って争っていた時(219年ごろ)のことです。

曹操が北山のふもとに大量の米を輸送すると、黄忠はこれを奪い取ろうと思って出陣します。

趙雲はこの時に一部の兵士を貸したのですが、黄忠が約束した時間に戻ってこなかったので、様子を見に行きました。

趙雲が数十騎の軽装の兵を率いて出撃すると、曹操の軍勢と遭遇します。

趙雲は戦いつつ軍を引き、負傷した武将を救出して自分の陣営に戻りました。

すると陣営を守る張翼が、門を閉ざして防衛しようとしましたが、趙雲はあえて門を開けさせます。

そして旗を伏せさせ、軍鼓を鳴らすのをやめさせました。

この様子を見た曹操は、趙雲が伏兵を用意しているのではないかと疑い、攻撃をしかけずに後退しようとします。

その様子を見た趙雲は軍鼓を大いに撃ち鳴らさせ、いしゆみを曹操軍に射かけさせます。

すると曹操軍はこれに驚いて逃走し、趙雲は危機を切り抜けることができました。

劉備は翌朝になって趙雲の陣営を訪れると、その戦場を視察して、「子龍は一身これたんなり(趙雲は全身が肝っ玉のような人間だ)」と言って称賛しました。

このために趙雲は、軍中で虎威こい将軍と呼ばれるようになります。

荊州への攻撃を計画した劉備を諫める

その後、ほどなくして荊州を守っていた関羽が孫権に討たれ、劉備は激怒します。

劉備は蜀の皇帝の地位につくと、関羽の復讐と領地の奪還のため、大軍を率いて荊州に攻めこもうとします。

趙雲はこの時、劉備を諫めるために次のように述べました。

「国賊は曹操であって、孫権ではありません。

まず魏を滅ぼせば、呉は自ずと降伏するでしょう。

曹操はすでに死にましたが、子の曹丕が後漢から皇位を簒奪しています。

それに怒りを感じる人々の心をくみ取り、漢中を掌握し、黄河と渭水の上流を抑え、逆賊を討伐するべきです。

関東の正義の士たちは、必ず食糧を持ち寄り、馬にむち打って我らを歓迎するでしょう。

魏をそのままにして、呉と戦ってはなりません。

ひとたび戦いが始まれば、すぐにやめることはできないのですから」

趙雲の言うことには道理が通っていましたし、他にも反対する者は多かったのですが、劉備は耳を貸さず、そのまま荊州への遠征を強行します。

趙雲はこのとき江州に留まり、守りを固めました。

やがて劉備が夷陵いりょうで大敗を喫すると、趙雲は撤退した先である永安に出撃しますが、呉軍はすでに兵を引いていました。

劉備は翌223年に亡くなり、趙雲が助けた劉禅が、蜀の二代皇帝となります。

蜀軍の重要な役割を担う

その後、趙雲は征南将軍に昇進し、永昌亭候の爵位を得ました。

さらに鎮東将軍にも就任しましたが、いずれも一方面を担当する重要な役割でした。

この時には関羽や張飛、黄忠といった蜀軍の主力を担っていた将軍たちがみな死去しており、残った趙雲の責任が重くなったのです。

劉備亡き後の蜀では、諸葛亮が丞相として政治の全権を担い、内政を充実させ、軍備を整えます。

そして蜀の国家としての目標である、魏の討伐と、大陸全土の支配権を確立するために動き出します。

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