海岸地帯を平定する
曹操は引き続き管承を征伐しにかかり、軍を淳于に配置し、楽進と李典を派遣してこれを撃破しました。
管承は敗れると、逃亡して海の向こうの島に逃げ込みました。
これによって海岸地帯が平定されています。
荊州で戦う
このころ、荊州はまだ服従していなかったので、楽進は陽翟に派遣され、駐屯しました。
そして曹操が荊州を平定するのに従い、中心地である襄陽に留まって駐屯します。
それから関羽や蘇非を撃破し、彼らを敗走させました。
楽進が武威を示すと、やがて南郡の山や谷に住む異民族たちが降伏を申し入れてきます。
また、劉備が臨沮に配置していた杜普や、旌陽の梁大らも打ち破り、劉備軍を圧迫しました。
劉備はこのころ、劉璋の要請を受けて蜀におもむいていましたが、楽進の攻勢を受けているので、荊州に戻らなければならないといったことを手紙に記しています。
その後も立身を続ける
やがて孫権の征伐が行われましたが、楽進はその際に節(軍の指揮権)を貸し与えられており、曹操からの信頼が厚かったことがうかがえます。
曹操が討伐から帰還すると、張遼や李典らとともに合肥に駐屯しました。
そして五百戸を加増され、以前からのものと合わせて千二百戸になります。
楽進は何度も戦功を立てたことから、一子を取り立てて五百戸を分け、列侯に取り立てられることにもなりました。
楽進は最終的に右将軍にまでなっており、魏軍において最上位の扱いを受けていたことがわかります。
やがて亡くなる
二一八年に楽進は亡くなり、威侯とおくりなされました。
子の楽綝が後を継いでいます。
楽綝は父に似た果断で剛毅な気風を備えており、揚州刺史にまで立身しました。
しかし諸葛誕が反乱を起こした際に、襲撃されて殺害されてしまいます。
詔勅によって悼まれ、衛尉の地位が追贈されました。
愍侯とおくりなされ、子の楽肇が後を継ぎました。
楽進評
三国志の著者・陳寿は「楽進は驍勇を備え、果断さによって名を顕した」と評しています。
また「しかしその行いはそれを裏付けていない。記録に漏れがあり、詳しい事績が伝わっていないのだろう」とも添えています。
楽進は呂布や袁紹といった強敵との戦いで活躍し、劉備軍を圧迫する働きをしており、魏の主力を担う将軍の一人でした。
そのわりには、功績が淡々と列挙されるだけで、どの戦いでどのように活躍したのか、詳しい話が残っていなかったようです。
このため、三国志での記述が簡素になり、楽進は張遼などに比べると、地味な存在になってしまっています。

