白馬義従は三国志に登場する、公孫瓚が率いていた騎兵隊の名称です。
「白馬」はそのまま「白い毛並みの馬」を意味し、「義従」は「騎乗した弓兵」のことを指しています。
公孫瓚は幽州という、東北の辺境地帯で戦っていた将軍でした。
【白馬義従を率いた公孫瓚】
このあたりには鮮卑などの異民族が多く、公孫瓚は後漢の領域に侵入してくる彼らを撃退する任務についています。
公孫瓚は異民族を討伐する際に、白馬にまたがって戦い、彼らをけちらしました。
そして追撃をかけて大きな打撃を与え、戦利品をぶんどったので、異民族たちは互いに「白馬を避けよ」と言い合うようになります。
このように、白馬が公孫瓚のシンボルとなっていたのでした。
異民族たちをさらに圧迫するため、公孫瓚は数千頭の白馬を集め、選りすぐった騎馬弓兵を騎乗させ「白馬義従」と名づけます。
そしてその勇名を世に知らしめ、戦乱の中で勢力を拡大していきました。
異説
これとは異なる説も存在しています。
もともと、北方の血気盛んな異民族の戦士は、いつも白馬に乗って戦う習慣があり、それを公孫瓚が模倣したのだとも言われています。
いずれにしても、北方では白馬が入手しやすい環境にあり、戦場で目立つことから、勇士が好んで用いる傾向があったのでしょう。
公孫瓚が大量にそろえていることから、アルビノ(変異個体)ではなく、毛並みが白い種類の馬がいたのだと考えられます。
界橋の戦いで敗れる
公孫瓚は白馬義従を率いて各地で戦い、ついには幽州・青州・冀州・徐州の四州にまたがる大勢力を築きます。
そして冀州の支配権をめぐり、袁紹と界橋の地で決戦を行いました。
この時に公孫瓚は、三万の歩兵を中央に置き、左右に五千騎ずつ騎兵を配置します。
そして精鋭である白馬義従を騎兵の中央に配置して目立たせ、袁紹軍を圧迫しました。
これに対し、袁紹は騎馬弓兵との戦いになれている麹義という武将に先鋒を任せ、自身は数万の兵を率いて後方に待機します。
麹義は八百の歩兵を前衛とし、その両側に一千の弩(機械じかけで射程が長い弓)を配置します。
公孫瓚は敵の先鋒が少数なのを見ると、白馬義従に攻撃させ、けちらさせようとしました。
麹義の兵はみな盾の下に伏せ、弓の攻撃を防ぎつつ、白馬義従が接近してくるのを待ちます。
そしてそれが間近に迫ったところで一斉に立ちあがり、攻撃をしかけました。
彼らが白馬義従の突撃を食い止める間に、左右に配置した弩から、うなりを上げて大きな矢が放たれると、次々と白馬義従たちは撃ち倒されて行きます。
勇猛な歩兵に突撃を防がせ、馬上から放たれる弓矢の射程外から、一方的に、より強力な弩で攻撃するのが、麹義の策だったのです。
これによって、公孫瓚の騎兵隊は壊滅状態となりました。
すると麹義はそのまま公孫瓚の陣営にまで斬り込み、厳網という武将を斬り捨て、千以上の首級を取ります。
残る公孫瓚の軍勢は全て逃げ散ってしまい、袁紹との決戦に敗れたのでした。
敗因
これは白馬義従が有名になったことで、その戦法も知られるようになり、対策が取りやすくなってしまったのが原因でした。
騎馬弓兵は強力ではありましたが、それしか攻撃手段がないのなら、相手をするのが得意な者を用いれば、打ち破ることができます。
麹義は長く涼州にいて、騎馬民族である羌族との戦闘経験が豊富な武将でした。
このため、袁紹は白馬義従の対策を彼に任せ、決戦に勝利することができたのです。
公孫瓚は対策を取られた際のことを考えず、一本調子になってしまったために、敗れ去ったのでした。
その後
白馬義従を失った公孫瓚は、今度はそれまでとは正反対に、十重二十重に壁をめぐらせた堅固な城塞に立て籠もり、一歩も外に出なくなります。
そうして世の行く末を観望しようと企んだのですが、やがて袁紹に何度も攻撃を受けるうちに守り切れなくなり、再び敗北し、自害しています。
公孫瓚はひとつだけの手段に、極端に頼りすぎてしまう傾向があり、戦術家としては二流だったのでした。
このため、せっかくの白馬義従も、十分には使いこなせなかったのです。